怠慢という罪

おそらく誰もが思うことだろうが、愚か者、怠け者というのは、いつの世でも嫌われる存在であろう。罪を憎んで人を憎まず、というのがキリスト者としての理想の姿なのだろうが、申し訳ないが私もこのような人種が嫌いである。もっとも広い世間には乱暴者とか強欲者とかずる賢い連中とか、他人から非難されるような者もあるだろうが、そのような者よりもなんと言おうか……気に入らない。これは聖書に書かれていることでもないし、キリスト者としてふさわしい考え方でもないだろうから、私の個人的な印象と思ってもらっていいのだが、欲が深いとか、腕力に訴えるとか、悪知恵を働かすというのは、何かしら目的を達成するために、どちらかといえば無理無体な手段に訴えているだけに思えるのだ。無法な振る舞いで他人を顧みないのは悪いと言えば悪いだろうし、身勝手かもしれないが、見方によっては目的を達しようという勢いがあるゆえに、「まぁ、それもありか」と納得することもある。しかし愚か者、怠け者というのは、どうもそのような勢いというのが感じられない。ただひたすらに何かから逃れようという様子にしか見えないのだ。

ところでキリストが言うように右の頬を殴られたら、左の頬も差し出すことが正義であるかといえば、必ずしもそうではないと私は思うのだ。もちろん聖書のことばを知っており、その意味を理解しているのであれば、そうすることは正しいに違いない。しかし事を荒立てたくないなどといった消極的な理由で相手の好きにさせるのであれば、それは偽善を隠れ蓑にした怠慢でしかないのではないか。

さて話を箴言に戻したい。冒頭部分に書いた愚か者や怠け者は箴言にも登場する。たとえばこうである。「愚かな者にことづけする者は、自分の両足を切り、身に害を受ける。」(箴言26章6節)「なまけ者は『道に獅子がいる。ちまたに雄獅子がいる。』と言う。戸がちょうつがいで回転するように、なまけ者は寝台の上でころがる。」(同13〜14節)

もちろんそれだけではない。ソロモンの言葉を額面通りに受け取るのであれば、そのような者と関わりをもってはならないということであろう。彼らから距離を保つことで、自らの身を守ることになるのかもしれない。ソロモンの言うことを簡単にまとめると、こうなるのではないか。彼らは信頼するに値しない。彼らは名誉で動くのではなく、鞭に打たれてしか行動しない。彼らの言葉は人を傷つける。彼らは過ちを改めようとせず、同じことを繰り返す。要するに彼らは建設的でないのである。しかし何もしないだけならまだしも、彼らは秩序を乱しかねないこともあるのだ。「自分に関係のない争いに干渉する者は、通りすがりの犬の耳をつかむ者のようだ。」(同17節)「陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく。……憎む者は、くちびるで身を装い、心のうちでは欺きを図っている。」(同22、24節)

彼らは自らに関係ないことに首を突っ込み、物事をかき乱し、いい加減なことを語らい、諍いや混乱を引き起こすことがあるのだ。彼らだけが痛い目に遭うのであれば、身から出た錆のようなものでしかたのないことだろう。しかし彼らは周りにいる人々にも災いをもたらすことにもなるのだろう。そう考えると、彼らから離れていることで、平安を保つことができるのかもしれない。もしかしたら怠慢の罪は、何もしないことだけではなく、自分のことを何もしないかわりに、興味本位で他人の問題に首を突っ込み余計な問題を引き起こしてしまうことにあるのかもしれない。

それではもう少し冷静に考えてみよう。ソロモンが言わんとしていることは、愚か者に近寄るな、怠け者と親しくなるなと、果たしてそれだけだろうか。それで完結すると思うのであれば、それはずいぶんと驕った考えて方になってしまうようにも思われるのだ。自分には愚かなところや、怠けたところなどないと果たして自信をもって言えるだろうか。残念ながら私には言えない。私の中にも怠けた心があることは否定できない。つまり私が避けなければならないような者に、私自身がなってしまう危険性があるのだ。そう考えてみると、もしかしたらソロモンは私たちの周りの人々がどうのではなく、私たち自身が周囲の人々にとって愚か者や怠け者にならないように注意を促しているのかもしれない。

結局のところ、怠慢の行き着く先はこうである。「穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、石をころがす者は、自分の上にそれをころがす。」(同27節)