明日を守られる神

「明日はどんな日か、私は知らない」という賛美がある。まったくこの賛美の通りで、人は明日どうなるかと知ることはできない。明日はこうなるだろうと予想したり、明日はあれをしようと予定を立てたりすることはあるだろうが、明日に確信を持つことはできない。明日のことや将来のことについて、ソロモンはこのように語っている。「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」(箴言27章1節)

未来のことが分からないことは仕方がないことである。そして今後のことをあれこれと考えたり、心配したりするのが人間の常であろうし、それもまたしようのないことだ。しかしそれを悔やんだり反省したりすることはないだろう。ソロモンはそのような人としてのごく当然の感情や考えを、ここで否定しているのではないだろうし、それを非難しているわけでもないだろう。あらためて読み直すと分かるが、ソロモンが戒めているのは、明日を自慢することである。自分では知ることのできない将来のことを誇りにしてはならぬと、注意を与えているのだ。

ではなぜ人は明日のことを誇ってはならないのだろうか。その理由であるが、私はこうでないかと思うのだ。まず明日のこと、未来のことを確実に知っておられるのは、ただ神のみであるということだ。つまり人が明日のことを誇るということは、神のみが知っていることに、人が口を出すことになる。言い換えるならば、神が立てられているご計画に対して、人が思い上がって横やりを入れることになるだろう。当人にはそのような意識はないかもしれないが、結果としては神に楯突くことになだろう。とは言え、周囲を見回しても、明日のことを自慢するような人はあまり見かけないというのが現実である。今の世の中、人は未知の物事に対して、自信を持つよりも不安を抱く傾向にあるのではないだろうか。それはそれで残念なことに違いないことである。

ところで人は分からないことに対しては口を閉ざしてしまう一方で、もっとも身近にあり、なおかつ理解している(かもしれない)自分自身については、何かと誇りに思いやすいのではないだろうか。自己顕示欲とでも言うのだろうか。少しでも自分を良く見せたいという気持ちの表れかもしれない。そうすることで、人は他人から認められたり、尊敬されたり、畏怖されたり、もしくは同情されたり、慰められたりすることを願っているのかもしれない。口では何と言おうとも、もしかしたら心の奥底では、人はひとりでいることに不安や恐れや寂しさを感じているのかもしれない。人が一人でいるのは良くないと神が言ったのも、そのような人の気持ちを知っていたからなのかもしれない。しかしソロモンはこう言っている。「自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分のくちびるでではなく、よその人によって。」(2節)

自分で自分を褒めること、考えてみれば、これほど意味のないことはないのではないか。いくら自分自身のことを自慢しようとも、それが人によって認められたものでなければ、それは自分に誇るに値するようなものがないことを告白しているのと同じであろう。さて、ここでちょっとおもしろいと思えるのは、私たちをほめるのは「ほかの者」や「よその人」と書かれていることではないだろうか。つまり親兄弟でもなければ友人でもない、深い関わりがない赤の他人であるからこそ、贔屓な目で見ることもなく、公平に人を評価することができるということなのだろう。

それはさておき、明日を誇ることも、自分の口で自分を褒めることも、そこに共通して見られるのは、人は自分自身を物事の中心に据えたくなるという性質があることを表しているのではないだろうか。それを人としての強みとして捉えるか、それとも反対に弱みとして捉えるかは、人それぞれかもしれない。しかしどちらにしても、自分中心という点においては、神をどこか心の中の端っこに追いやっていることにならないだろうか。

さて先ほどの賛美はこのように続いている。「私は明日を心配しない、イエスが私を守られるから。明日は私にはわからないけど、明日を守られるイエスがおられる」本来であれば、人は他人からどう見られているのか思い煩う必要もないし、明日何をするか気負う必要もなく、心静かに過ごすことができるのではないか。それというのも、救い主イエス・キリストが私たちと共にいて、私たちの重荷を一緒に負って下さるからであろう。