焦るは損

急がば回れ、ということわざがあるかと思えば、急いては事をし損じる、ということわざもある。焦りは禁物というのは、多くの人が自らの実体験から気付いていることだろう。仕事にしても勉強にしても何事においても、急いでやろうとすれば失敗することが多いのではないか。もとより人は完全な存在ではない。すべてを把握し、あらゆる状況を想定して行動することのできる人などこの世にはいないに違いない。だからこそ人は予定や計画を立てるのではないか。しかし残念なことに現実には、どれだけ念入りに計画を立てたとしても、その通りにならないことも往々にしてある。その念入りさを欠いてしまえばなおのこと、人は細かいところにまで気が回らずに、おおざっぱにしか物事を扱うことができなくなってしまうだろうし、そこからは何ひとつとして良いものは出てこないだろう。

しかしながら「急いては事をし損じる」と言うもの、それでもなぜ人は焦ってしまうのだろうか。私自身のことを振り返ってみると、いくつか理由が思い浮かぶ。そのひとつは、早く目的を達成したいと気持ちがあるからだ。要するに辛抱することがきない、待つことができないのである。もうひとつは、手間を掛けたくないのである。要するに難しいことや頭や体を動かすのが面倒になってしまうのだ。そのような焦る人に向けられているかのような、このようなソロモンの言葉がある。「貪欲な人は財産を得ようとあせり、欠乏が自分に来るのを知らない。」(箴言28章22節)

私に限らずとも、程度の差こそあれ人は焦る生き物であろう。それはそれで仕方が無い。しかし貪欲な者は人並み以上に焦りやすいものなのだろうか。確かに欲が深ければ深いほど、欲しいものがあれば今すぐにでも手に入れたいと思うことだろうし、できることなら余計な手間を掛けたくないと思うことだろう。急ぐことで人は目的を達することができるのだろうか、願いを叶えたり、欲しいものを得ることができるのだろうか。ソロモンはそうは言っていない。貪欲な人の結末は欠乏であるという。欲しいものを得られないというのであれば、それはそれでやむなしである。綿密な計画もなく、目的を達成しようなどとは、奇跡を願うに等しいであろう。

しかしソロモンが言わんとしていることは、それとはちょっと違うようだ。それでは「欠乏が自分に来る」とは、どのようなことかを改めて考えてみよう。欠乏とは欲しいものが得られないという意味ではない。現状に対して得るものがないのであれば、今の状況に違いがないということである。しかし欠乏というのは、言うなれば現状から何かしらが差し引かれてしまうような状況を表している。つまり今より状況が悪くなるということだ。極端な話、ハイリターンを期待して、慣れない投機に手を出した挙げ句、自己破産どころかホームレスに転落してしまうようなものだ。

そうならないためにも人はどうすればよいのだろうか。一切合切欲を捨て去るべきなのか。たしかに欲がなければ、物事に焦りを感じる必要もなくなるだろう。しかし人は無欲になれるのだろうか。もしかしたらそうできる人も世の中にはいるかもしれないが、残念ながら私にはどう考えても無理だ。言い訳をするわけではないが、そもそも欲をすべて捨て去る必要があるのだろうか。前にも言ったかもしれないが、まったく欲がなければ人は前に進もうという思いすら失せてしまうのではないだろうか。もしそうであれば、無欲というのは極端であろう。ソロモンはこうも言っている「欲の深い人は争いを引き起こす。しかし主に拠り頼む人は豊かになる。自分の心に頼る者は愚かな者、知恵をもって歩む者は救われる。」(同25〜26節)

どうやら欲があることが必ずしも悪いというわけではないようだ。欲が深く、思い上がった気持ちでいることが問題なのだろう。しかし自らの欲望と心に身を委ねるのではなく、神に信頼を置くのであれば、人は豊かになるという。神を頼ることの利点とはなんであろうか。それは全知全能である神を頼ることで、人は余計な悩みや心配から解放されるからではないか。心に重荷を負うのでなければ、人は自らの行いに余裕を持つことができるだろう。そうすれば人のすることは何事も丁寧になり、やがてそれは他の人から認められることになるだろうし、神はその人の行いを祝福するであろう。

慌ただしい日常においては、時間がもったいないとか、手間が掛かるとか思えるかもしれないが、ちょっと立ち止まって、改めて神に目を向け、知恵を大切にする。ただそれだけで、人は多くを得ることができるのかもしれない。