目立たぬ二人

先日、幼稚園に通う次女が降誕劇に出演するというので見に行ってきた。幼稚園で降誕劇を見るのは、実に先日で四回目である。長女が登場したのは二回目、次女が登場したのは四回目である。一回目と三回目は当時年中であった娘たちの劇が終わった後に、幼稚園のホールから途中で抜け出すわけにもいかず見ていた程度である。ところで降誕劇と言えば、元々がバリエーションが無いうえに、さすがに何度も見ているものだから流れが分かってしまう。ちなみに園児が少ない年には、ザカリヤとエリサベツの役が無くなるというのも知っている。それにしてもこの二人はどういうわけか、クリスマスの物語の中では表舞台に立つことが少ないようである。しかし目立つことがないからといって、彼らが重要ではないというわけでもないだろう。キリストを迎えるにあたって、彼らには彼らなりの役割というのがあったはずである。

さて、目立たぬザカリヤとエリサベツに今回は目を向けてみたいと思う。聖書では二人についてこのように記録されている。「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。」(ルカの福音1章5〜7節)ついでに言うならば、イエスの母であるマリヤとエリサベツとは親戚であったという。どの程度の親戚なのかは、ちょっと分からないが、これも単なる偶然ということはないだろう。

そしてザカリヤとエリサベツの二人が重きをなすのは、やはり次に挙げる点ではないかと思う。それが何であるかというと、彼らの息子が後にバプテスマのヨハネと呼ばれる男になるということだ。つまりこの二人がいなかったのであれば、ヨハネもまたこの世に誕生してくることはなかったであろう。これは私の想像でしか無いが、もし彼が誕生しなかったのならば、イエスはこの地上で果たして大工以上の者になれたであろうか。いや、イエスの神としての立場を疑っているわけではない。ヨハネがいようといまいと、イエスが神のひとり子であり救い主であるという事実に違いはないはずだ。しかしヨハネなくして、イエスが神の子であるという事実に周囲の人々が気付いたであろうか、また人々はイエスが何者であるかを知ることができたであろうか、少しばかり不安が残るのではないか。なぜならヨハネはある目的を持ってこの世に誕生したからだ。聖書にはこう記されている。「……イスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」(同16〜17節)

すなわちザカリヤとエリサベツの息子ヨハネは、イエス・キリストが神の福音を伝え人々を救うための道を整えるために生まれたようなものである。そのように考えると、ヨハネの働きは意義深いものであったと言えよう。であるにも関わらず、彼の両親はどちらかといえば脇役のような存在である。三博士や羊飼いたちは必ずと言っていいほど、様々な場面に登場するのであるが、ザカリヤとエリサベツを見掛けることは滅多にない。目立たぬこの二人にとって最も大切なことは、何であったろうか。おそらくそれは神の御前に正しく歩むことであったろう。そうすることで、彼らはまだ生まれぬキリストを迎える準備を無意識のうちにしていたのかもしれない。そしてそのような二人の間に生まれたからこそ、ヨハネもまたキリストのために道を整えることに全身全霊を捧げることができたのかもしれない。

ところで話を前に戻すが、我が家の娘たちは降誕劇で女の子に人気の「天使」や「星」にはならなかった(なれなかった?)ので、姉妹そろってナレーターという実に地味な役だったわけだが、地味ではあるが誰かがクリスマスの物語を進行させなくてはいけないので、やはりそれなりに必要な役割だったのだろう。

クリスマスのこの時期、ザカリヤとエリサベツがまだ見ぬ救い主を迎える気持ちがあったように、私たちもまたキリストを歓迎する思いを持つとともに、彼らの息子ヨハネがキリストのために荒野で叫ぶ者(同3章4節)となったように、キリストを知る者として私たちもまたキリストが救い主であることを世に示していきたいものである。