おとめマリヤ

十二月も半ばを過ぎたなぁ、などと思っていると、ふと見掛けた電車の吊り広告にこうあった。「年末ジャンボ宝くじ、販売は12月21日まで。」ふーむ、一等前後賞合わせて六億円とか、実に景気の良い話である。今年も買おうかとどうしようかと悩みつつ、まだ買わない自分がいる。余り物には福があるとばかりに、ぎりぎりまで待っているわけでもない。たかだ夢を見るのに三千円というのは、ちょっと高いのではないかと、ためらっているだけだ。ケチな話かもしれないが、三千円を払うだけの余裕があれば、自分が欲しいと思うものや、何か役に立つようなものや、後々まで形に残るものを買うのに使った方が得なのではないかと考えてしまうのだ。しかし何よりも、神が我が家を宝くじを用いて祝福することはないだろうと最近思うようになってきたのだ。もちろん信仰さえあれば、宝くじで祝福というのもあり得ない話ではないだろうが、私に限って言えば、宝くじは神の選ぶ手段ではないと思う。これもまた信仰なのであろう。

しかし駅の構内などにある宝くじ売り場にたまに掲示してある「二等三千万円、この売り場から出ました!」などと言った看板や張り紙を見るたびにこう思うのである。誰かの人生が変わったな、と。それが良い方に変わったか、悪い方に変わったかは、それは私の知るところではない。おそらく宝くじを買う多くの人々は、是が非でも当ててみせようと意気込んで買うのではなく、私と同じように、買うのは夢であって、運が良ければ当たるかも知れないという軽い気持ちで買っているだろう。そのようなどこにでもいるような人が一瞬にして何千万、いや何億円という金額を手にすると知ったらどうなるだろうか。私には想像すらできないが、おそらく驚くことに違いはないだろう。実際、賞金を受け取りに来ない人がいることを考えると、文字通り「運を使い果たす」というわけではないだろうが、ショックで死んでしまう人もいるんじゃないかと疑ってしまう。まぁ、予想外の出来事に遭遇したときの反応というのは、人それぞれであろう。

ともあれ、宝くじの話で盛り上がってしまいそうであるが、十二月は宝くじの時期ではあるけれども、それよりもクリスマスの時期である。ところでクリスマスといえば、この人抜きで語ることはできまい。他ならぬイエス・キリストの母マリヤである。たとえキリストが神のひとり子であったとしても、この世界に人間として存在するためには人から生まれる必要があったのだ。そこで選ばれたのマリヤであった。

聖書にはこのように書かれている。「御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。……ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。』」(ルカの福音1章26〜28、31節)

彼女はこの言葉に戸惑ったと聖書には書いてある。しかし御使いが彼女に恐れるなと言ったことを考えると、彼女は驚いたり戸惑ったりしただけでなく、もしかしたらそれ以上に恐れていたのかもしれない。考えてもみれば、そうだとしても不思議なことではない。見たこともない人物がいきなりやってきて、男を知らないマリヤに身籠もっているというのだから、世が世なら通報されかねないものだ。マリヤはここで驚いて逃げ出すこともできたであろうし、助けを求めることもできたであろう。それどころか彼女は御使いに答えて言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(同38節)すなわち、彼女はこれから起こるであろうことをすべて受け入れたのだった。

予期せぬ良いことが起きた時、それを前向きに受け止めることは簡単であろう。人はそれを「幸運」として喜んで受け入れるものだ。ところが思いもしなかったような、困ったことや悩ましいことが起こった時、人はそれを「不運」と呼んで、それから目を逸らし、逃げ道を模索するものであろう。マリヤにとってイエスを身籠もったということは、最悪のシナリオを想定すれば不貞と見なされて、石で打たれてしまったとしてもおかしくはない事態であり、彼女がそれを「不運」と考えたとしても、私たちは彼女を責めることはできない。しかしそれでも神にすべてを委ねて、神のみこころの通りになることをマリヤは願ったのだ。マリヤの神に対する確かな信頼があったからこそ、この時期クリスマスを祝うことができるのであろう。