死ぬために生まれ

世の中には富んでいる人もいれば、貧困のどん底で必死な人もいる。一世紀以上も生きてきた人もいれば、今この瞬間に生まれたばかりの人もいる。男もいれば、女もいる。順風満帆な人生を楽しんでいる人もいれば、悔やんでも悔やみきれない思いの人もいる。かく言う私は、四十路の男である。良くも悪くも、それ以外に取り立てて書くこともない凡人である。当たり前のことだが、人々は十人十色、千差万別である。たとえ双子であってもまったく同じ人はいないとも言われているくらいだ。しかしどのような人であっても、絶対と言い切ることができる共通点がひとつだけある。それは人である限り死ぬということだ。好もうと好まざると、これだけは「保証」されている。

キリストを信じる者は永遠のいのちを得るとは言うが、クリスチャンだって時期が来れば死ぬ。私などとてもその足下にも及ばないような、聖書に登場する立派な信仰者たちでさえも死んでしまったではないか。それにしても、なぜクリスマスだというのに、四十路の凡才はこんな気の滅入るようなことを書いているのだろうか。しかも救い主イエス・キリストの誕生を祝う、この時期にである。本来であれば、もっと前向きで、もっと喜ばしい話題を語るべきなのだろうと、思わないわけでもないのだが。

ところで改めて考えてみると、そもそもイエス・キリストは何のためにこの世に誕生されたのだろうか。人々に神のことばを伝えるために、奇跡を行うために……たしかにそれもあるだろうが、それだけではないだろうと私は思う。神のことばを伝えるのであれば、預言者でもできたはずだ。また奇跡を行うのであれば神の御使いでも可能であったろう。キリストが人としてこの世に誕生する以前にも、神のことばは伝えられていたし、奇跡が起こったこともある。キリストがこの世界に来られた理由は、彼だけにしかできないことがあったからに違いない。

聖書にはキリストが来られた理由について、このように書かれている。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネの福音3章16〜17節)

キリストが来られた目的とは、人々を罪とその結果から救うことであった。そのために罪ある私たちの身代わりとなるべき罪のない者がキリストであった。彼がご自身のいのちでもって、人々の罪の代価を払う必要があったのだ。極端な言い方になってしまうが、死ぬことを目的に生まれてきたのがキリストなのである。

クリスマスというと、サンタクロースやらトナカイやらが登場してくる、何やら愉快な雰囲気を連想したり、また教会で礼拝が持たれたり、家族や友人で集まって食事をして過ごしたりと、暖かで和やかな場面を思い浮かべたりするものであろう。そのようなイメージを抱いている方々を興醒めさせてしまうようで申し訳ないが、キリストが誕生から三十数年後に、裏切られ、罵られ、鞭で打たれ、いばらの冠をかぶせられ、つばを吐きかけられ、挙げ句の果てに強盗と一緒に十字架に磔にされて殺されてしまうことを考えてしまうと、ありふれたクリスマスのイメージが覆されて、残酷で無慈悲な情景が想像されてしまうだろう。だがそれがキリストが来られた目的を達成するために必要なことだった。

しかしクリスマスの夜に飼い葉桶に眠る赤ん坊の姿を見たとき、赤ん坊のそのような将来を想像した者が果たしていただろうか。マリヤもヨセフも、羊飼いたちも博士たちも、おそらく天使たちでさえも、誰ひとりとしてそのようなことを考えなかっただろう。彼らにしてみれば、その赤ん坊は「ユダヤ人の王」(マタイの福音2章2節)となるべき、「いと高き方の子」(ルカの福音1章32節)であり、「救い主」(同2章11節)であった。彼らはイエスがどのようにしてそれを成し遂げるか知らなかった。知る必要がなかったから、知らされなかったのかもしれない。なまじイエスの最期を知っていると、先ほどの私のように物事を捉えてしまい単純に喜ぶことができなくなってしまうのではないか。

たしかにキリストがこの世界に来られた目的から目を逸らすわけにはいかないが、喜びと感謝と期待をもってキリストを迎えることが、神の望まれていることであろう。そしてキリストを迎えるのであれば、是非とも心の内に迎えたい。