愚かさと知恵と

知恵のある人とは、果たしてどのような人たちを示しているのだろうか。確かだと思えることは、私はその中には入っていないだろうということである。私は自分自身の浅薄さというか、知恵の足りなさを十分に承知しているつもりである。もっとも物は考えようで、それを悲観したり、卑下したりする必要はないのかもしれない。私にとって都合の良い見方をするのであれば、自らの愚かさに気付かずに、自分は知恵があると思い込んでいる人々よりは、自分に欠けているものが何かを知っているということになるので、自分が求めるべきは何かを知っているからだ。もちろん、それを求める求めないは、また別の次元の話かもしれないが。

しかし私が悟らずとも言わずとも、人は知恵を求めるべきであるということは、ソロモンが幾度となく箴言の中で繰り返し言っていることである。ところで知恵のある人がどのような人物であるかを知るということは、どうすれば知恵を得るかを知ることになるのではないか。またその反対に、知恵のない者がどのような人物であるかを知るということで、どうすれば知恵を失ってしまうことになるかも知ることにもなるだろう。たとえ今の私に知恵がなくとも、少なくとも知恵のある人がどのような人であることかを知ることで、あわよくば私自身も少しは知恵を得ることになるのではないかと、ちょっとばかり期待をしているわけである。それでは知恵のある人について、ソロモンは何と言っているのだろうか。改めて箴言に目を向けていきたいと思う。

まずソロモンはこう記している。「知恵を愛する人は、その父を喜ばせ、遊女と交わる者は、財産を滅ぼす。」(箴言29章3節)

すなわち知恵に価値を見いだし、それに親しみを持つか、それともこの世の快楽を求めるかで、その人の生き方や未来が決まってくるということだろうか。知恵に重きを置くのであれば、それは身近な人を喜ばせることになり、反対に世俗の楽しみを追求するのであれば、それは自らの生活を破綻させることになるということなのかもしれない。しかしながら知恵と遊女では、さすがにその違いが歴然としているから、好き好んで知恵よりも遊女を選ぶような人は、普通はいないだろう。だが世俗の喜びや楽しみということから考えてみると、仮にも遊女という形はとらなくとも、人を誘惑するものは数多くあるのではないだろうか。もし人が知恵を軽んじて、それを求めることをせずに、ただ自らが心地よく感じる物事を追い求めるのであれば、それはその人が築き上げてきた地位や名声や財産を失わせてしまうことになるのかもしれない。しかしその反対に、人が知恵を求めるのであれば、人に自らの行いを反省させたりと、あまり心地の良いものではないかもしれないが、長い目で見ると、それはその人を生かし、またその人の周囲にも祝福と繁栄をもたらすものなのだろう。

またソロモンはこのようにも書いている。「あざける者たちは町を騒がし、知恵のある人々は怒りを静める。知恵のある人が愚か者を訴えて争うと、愚か者は怒り、あざ笑い、休むことがない。」(同8〜9節)そして似たようなことに、こうも言っている。「愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる。」(同11節)

どうやらソロモンの時代も今の世の中もさほど違いはないようである。人の世には、自らの思うところや考えるところを声高に主張し、騒ぎを起こし人々を混乱させてしまう人たちが常にいるということであろうか。しかし知恵のある人は、混乱を鎮めるという。つまりこういうことだろうか、秩序を壊すのが愚かな人であり、秩序を回復させるのが知恵のある人であると。しかしながら愚かな者はそれで反省をしないばかりか、憤りとあざけりを持ち続けるという。もっとも混乱を起こすのは仕方がない場合もあるかもしれない。まったく意図せずに、私たちも混乱や騒動の種を蒔くことがあるかもしれないからだ。そうなった時に、人の言葉に耳を傾け、自らの行いを反省することが、知恵を得るための一歩なのだろう。

などと考えていると、愚かさとは、自分自身を満足させ納得させ続けることなのではないかと思われる。その一方で知恵とは、自らを省みて正すことなのではないだろうか。そしてソロモンが言うように神を恐れることが知恵の始まり(箴言2章)なのであれば、人は自らを神のことばに照らし合わせて反省するが求められているのではないだろうか。