初めにことばあり

日本人は勤勉だとか働き者だとか、世界ではそう思われているらしい。ついこの前クリスマスで盛り上がったかと思えば、その一週間後にはもう正月を祝うのだから、まぁ、確かに働き者と言ってしまえば、そうかもしない。何というか、この時期は慌ただしく過ごすことが半ば習慣のようになっているのではないかとさえ思われる。まさしく師走と言われているのも納得できよう。私がアメリカにいた頃は、クリスマスは盛大に祝われたものだが、正月はただの休みでしかなかった。そして翌日には学校や仕事が始まるのである。日本のように正月三が日という習慣がない。その代わりクリスマス休暇があるわけだが。

さてこの時期はカレンダー上では休みなのであるが、気持ち的にはまったくと言っていいほど休んだ気がしないのである。かといって、何か忙しく立ち働いているわけでもない。私だけかもしれないが、世間全体に落ち着きがなくなっているように感じてしまうのだ。個人的にはクリスマスか正月のどちらか一つに「イベント」をまとめられないものだろうかと思うのだ。ちなみに私はおせち料理が苦手なので、いっそのことクリスマスに新年も一緒に祝ってしまえば、私としてはたいへんにありがたいことである。そうしてくれるのであれば、元旦に仕事を休めなくとも一向に構わない。それどころか、電車が空いているし、どこか浮ついた正月の雰囲気にさらされなくて済むからと、むしろ喜々として仕事に行くことだろう。

何はともあれ、せめて一年の始まりくらいは、慌ただしさから解放されて迎えることができたらどんなにかありがたいことかと思うのだが、そんな甘えたことばかりも言ってられまい。せわしく年の瀬を過ごして、慌ただしく年の初め迎えて、息つく間もなく「休み」があけてしまうのが現実である。であれば、せめて新しい一年の始まりを、浮き世の騒ぎから距離を置いて、神のことばで迎えてみるのも一興であろう。

ところで一年の初めということにかけて「初め」という言葉が使われている箇所で、真っ先に私の頭に思い浮かんだのはこれである。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」(ヨハネの福音1章1〜2節)

「初めに、ことばがあった。」初めに日の出があったわけでもなければ、正月があったわけでもない。まず「ことば」があったのである。ことばといっても「あ」があったわけでもなければ「ん」があったわけでもなく、「音」があったわけでもなければ「文字」があったわけでもない。ことばは「神とともに」あり「神であった」という。つまりことばは神ご自身なのだ。もしこの箇所が「初めに、神がことばを話された(もしくは、記された)」というのであれば、多少なりとも理解できそうなものだが、ここではことばイコール神となっているのだから、どうにも理解に難しいというのが正直な感想である。

さらに続けてこのように書かれている。「すべてのものは、この方(=ことば)によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(同3節)すなわちその他すべてのものは後から「ことば」によって造られたという。元旦の朝に富士山の頂上から日の出をめでたいと拝む人々もいるが、富士山も日の出も、ことばによって造られたものである。そもそも正月元旦として祝う今日という日も、ことばによって造られたものに違いない。ことばは神であるとともに、この世界の創造主でもあるということだ。

そして少し先にはこう書かれている。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(同14節)ことばは神であるから、この箇所はこう読み替えることもできよう。「神は人となって、私たちの間に住まわれた。」これを聞いて、おそらく多くの人々がつい先日終わったばかりのクリスマスを思い浮かべるかもしれない。たしかにそう思っても当然であろう。なぜなら神が人となってこの世に来られたのが、イエス・キリストなのであるから。すなわちことばは神であり、創造主でもあるのだ。またことばとは、イエス・キリストを指し示してもいるのだ。

私たち日本人は何かと「初」とつくのが好きなようである。初夢や初詣、初仕事に初売り……いちいち挙げていったらきりがないほどだ。であれば、すべての物事の「初」であるイエス・キリストに目を向けて、この一年も始めてみたい。