福音のはじめ

「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」(マルコの福音1章1節)

キリストがどのようなお方であったのか、改めて考えてみたいと思う。私自身、世の中で言うところのクリスチャンであり、イエス・キリストを救い主として信じ、受け入れていることに疑いはない。しかしキリストを当然の存在として受け入れることは、それだけキリストを身近に感じることになるかというと、そのような人もいるかもしれないが、残念ながら私の場合はそうではないのである。どうも当たり前のこと過ぎて、気に掛けなくなってしまうのだ。空気が当然のもので何とも感じないように、救い主がいることが普通のことになってしまい、妙な言い方かも知れないが、ありがたみを感じなくなってくるのである。いや、当たり前のものすべてに対して何とも感じないというわけでもない。思うのであるが、空気にしてもキリストにしても目に見えない。目に見えないゆえに、気にしなくなってしまうのかもしれない。もちろんただの言い訳でしかないかもしれないが。

そのようなことを考えつつ聖書を読んでいて、いや、真面目に読んでいたというよりも、何となくページをめくっていたら、目についたのがマルコの福音の、この書き出しである。神の子であるイエス・キリスト、その彼の福音のはじまり、ということである。福音とは良い知らせということであり、その良い知らせというのは……答えは分かっているにしても、マルコはそれを書こうとしているのだろうから、それを私がいきなり結論を出してしまっては意味がない。

さてマルコはキリストのことを何と伝えているのだろうか。ゆっくりと見ていこうと思う。ちなみにこのマルコであるが、キリストの十二弟子の中にはいない。使徒の働きに何度か登場する「マルコと呼ばれるヨハネ」であるというのが通説である。もちろん本当にそうであるのかどうかは誰にも分からない。今日のように著作に「著者略歴」を記すということのない時代である。しかし肝心なことはマルコが誰であったかということではないだろう。憶えておきたいのは、この福音書はキリストと直接に関わったことがなかったかもしれない人物によって書かれていることであろう。つまり今を生きる私たちとマルコには少なくとも一つの共通点があるのではないか。そう考えると、少しは親近感を持つことができるのではないか。

「バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。……彼は宣べ伝えて言った。『私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。』」(同4、7節)

彼はバプテスマのヨハネについて書いている。このヨハネであるが、実は一風変わった人物で、マルコに言わせれば「ラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」(同6節)ということである。当時のヨルダン川沿岸に醤油があったとは思えないから、いなごと言っても佃煮を食べていたわけでもないだろうから、おそらく生で食べていたのかもしれない。想像するに野性的な生活をしていたのだろう。

だが重要なことはヨハネがどのような生活をしていたかではなく、彼がイエス・キリストのために「道」を用意したということであろう。すなわち彼は人々に罪を悔い改めるようにと伝えていた。それは後から来るキリストを人々が受け入れることができるように、人々の心を備えさせるためのものであった。

ところでマルコにしてもヨハネにしてもキリストの直接の弟子ではなかった。ヨハネは彼のために道を備えただけであり、行動を共にすることはなかった。またマルコは弟子たちが伝道を始めるようになってから、キリストの物語を記録しただけであった。それでも彼らの行いは、聖書という形で後の世まで残り、キリストを伝えるために今日でも役立っているのである。

信仰を持っていない人々は、キリストに直接出会えば信じると言うかもしれない。また信仰を持つ人々は、キリストに直接出会えばさらに信仰が深まると言うかもしれない。しかしイエス・キリストに直接触れることできなくとも、キリストを意識することはできるだろう。キリストを身近に感じようとするのであれば、視覚で探すのではなく、心で求めるのがよいのだろう。