四十

四十というと、ちょうど今の私の年齢である。が、そんなことはどうだっていい。イスラエルの民はエジプトでの奴隷生活から解放された後、神に約束された地に到達するまで四十年間荒野をさまよったという。考えてみると、ちょうど私が生まれた年にイスラエルの民がエジプトを出発したとすれば、今になって安住の地を見つけたということになるだろう。何とも気の長い話である。聖書に書かれている当時のイスラエル人たちのことを過去の話として知っている今のクリスチャンの視点から見れば、彼らのことを罪深いとか不信仰だとか、何とでも言うことができるだろう。しかし自分自身にとっての年月として考えてみると、彼らが誤った道に進んだということも、何となく納得である。よほどの強い意志の持ち主でもなければ、明けても暮れても荒野で落ち着くところもなく過ごしていれば、いい加減飽き飽きしてしまうことだろう。そして人間というのは、置かれている状況に飽きてしまうと、別の何か、つまり変化を求めてしまうものだ。イスラエルの民は、直接触れることのできぬ神の飽いてしまい、五感で感じられる偶像に神を見いだそうとしただけだ。それが彼らの人間としての弱みであり、過ちであった。もちろん最終的には彼らは約束の地を見出し、すべてはうまく収まったわけだが、それにしても長く掛かったものである。

さて、そろそろ話をイエス・キリストに戻そう。彼はヨハネによって洗礼を受けた後、どうしたのか。聖書にはこのように書かれている。「そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。」(マルコの福音1章12節)

ところでここを読んでいて、ふと思ったのであるが、この「すぐ」とはどれくらい「すぐ」だったのだろうか。たとえば人から何かを頼まれて「すぐにやるから」と答えて、実際にそれを行動に移すのは人によって様々かもしれないが、文字通り「すぐ」にやる人は案外少ないのではないだろうか。たとえば我が家の娘たちを見ていると、彼女たちの「すぐにやるー」というあまり乗り気ではない返事を聞いていると、再び注意されない限りは永遠に「すぐ」は訪れないのではないかとさえ思えてしまう。まぁ、私にしても子供たちのことをどうこう言えるような立場ではないかもしれないが。

ではイエス・キリストにとっての「すぐ」とはどれくらいだったのだろうか。荒野に出て行かなければならないのであれば、弁当やら着替えやらを用意して行かねば、と考えるのは人間的な考えかもしれない。しかしキリストは準備をする余裕などはなかったはずだ。なぜなら彼は荒野に行って欲しいと神の霊に頼まれたわけでもなければ、行けと命じられたわけでもなかった。彼は追いやられたのだ。露骨な言い方をするのであれば、荒野に追い出されたとも言えるだろう。つまりこうだ。洗礼を受けたときに、御霊が鳩のように下ってきたと思ったら、次にはその御霊がキリストを荒野に追い出したということだろう。慌ただしいといえば、慌ただしいことこのうえない。

では荒野に追いやられたキリストはそこでどのように過ごしていたのだろうか。そもそもなぜ御霊は彼を荒野に向かわせたのだろうか。目的は何だったのだろうか。イスラエルの民たちがさまよったように、彼をさまよわせるためだろうか。聖書にはこう書いてある。「イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。」(同13節)

なんと彼は誘惑を受けるために荒野に向かわされたのだった。(詳しいことはマタイの福音4章に書かれている。)そうするとなぜ彼は誘惑にあわなければならなかったのだろうかという次なる疑問が生じるのだ。これは私の考えでしかないが、もしかしたら人間としての誘惑を受けることの苦しみや葛藤というものを経験するためだったのかもしれないし、誘惑には打ち勝つことができるという見本を示すためだったのかもしれない。

誘惑に負けてしまったがために四十年荒野をさまようことになったイスラエルの民がいたかと思えば、四十日荒野で誘惑に耐え続け、神からつかわされた御使いに守られたのはイエス・キリストであった。たしかに神は私たちを導き、守られるであろうが、私たちにもどのように行動するかの責任があるだろう。神のみことばに従うのを先延ばしにするか、それともすぐに従うか、また道が険しくなったときに、安易な道を探すか、それとも神に期待して堪え忍ぶか。決めるのは自分自身なのである。