人として生まれ、人として死に

今年もまたイースター、すなわち復活祭がやってきた。毎年感じることなのであるが、私にとってはどちらかと言えば、クリスマスよりもイースターの方が心の奥底に重たく響くものがある。もちろんクリスマスが重要でないと言っているわけでもないし、クリスマスが嫌いだと言っているわけでもない。なぜそうなのかと聞かれても、自分でも本当の理由というのが正直なところよく分かっていない。もしかしたらクリスマスが広く一般に知られ過ぎて、本来の意味を考えずに浮かれて騒いでいるだけの世間の有様にうんざりしているだけかもしれない。とは言っても最近はイースターも一般に知られるようになってきているので、クリスマスのように俗っぽくなってしまうのも時間の問題かもしれない。まぁ、今からそのようなことを心配してもしようのないことかもしれないが。要するにこういうことだろうか。世の中の浮かれた雰囲気などに邪魔されることなく、復活祭の重要さについて考えることができるから、その分だけこの日は私にとって特別なものと感じているのかもしれない。日常の中でキリストの復活を振り返ることのできる素晴らしさとでも言おうか。それとも信仰的な視点から、クリスマスよりもイースターに何か感じてしまうのだろうか。たしかにそれもまた言えることかもしれない。

ところで誰でもこの世界に生きている限りは誕生日というのがあるはずだ。この世に生まれ出てこない限りは、この地上に存在することすらできないのは明白である。クリスマスは救い主イエス・キリストがこの世にお生まれになったことを覚えて、祝うという意味では大切かもしれない。しかしながら誕生というのは誰でも経験することであって、キリストに限られた特別な出来事ではないだろう。

それではイースターというのはどうであろうか。キリストはイスラエルの王であり救い主でありながら、罪人と共に十字架につけられ、殺され、そして墓に葬られて……と、まことに報われない死に方ではあったが、誰でもいつかは死ぬのだから、それも仕方ないことかもしれない。この世に生を受けて、やがて死んで、というのが簡単に言ってしまえば人の一生である。神の子であったイエス・キリストといえども、人として生まれたからには例外ではなかった。ところが、ここから先がキリストと私たち普通の人間との大きな違いなのである。キリストはよみがえられたのだ。人は死んだらいつまでも死んだままであるが、キリストは死んだままではなかったのだ。この日が復活祭と呼ばれる所以である。

たしかに死んで生き返った人間は他にもいたというのも事実である。ヨハネの福音11章に記録されているラザロの話は有名であろう。しかし彼は自分自身でよみがえったわけではなかった。キリストが彼をよみがえらせたのではないか。

しかしイエス・キリストは誰かによってよみがえらされたわけではなかった。もし神が彼を死から呼び戻したのであれば、彼がよみがえらせたラザロと彼自身の間にたいした違いはないことになるだろう。しかしキリストは自らの力によってよみがえられたのである。まさか、死んだ人間にそんなことできるわけないじゃないか!そう思ってしまうかもしれないが、たしかにそんな芸当が人間にできるわけはない。キリストが何者であったかを考えてみよう。彼は神であったにも関わらず、赤ん坊として誕生して、人として生きて、人として死んで、人として埋葬されて……そして死の力を打ち破った神としてよみがえられたのだ。これがイースターなのである。キリストの復活を覚えて、祝う日なのである。そして何よりも、キリストの十字架の死によって私たちの罪が洗い流され、キリストの復活によって私たちに永遠のいのちが与えられたことを覚えて、感謝をする日なのである。

ところでキリストと一番長い時間を過ごし、彼の話を聞いていたはずの弟子たちでさえ、墓を見に行った女性たちからことの顛末を聞かされても信じなかったそうだ。「ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。」(ルカの福音24章11節)それほどまでに、キリストの復活とは想像すらできないことだったのである。それだけにキリストに従っていた人たちの衝撃や感動というものは、聖書に書かれていることを通じての「疑似体験」しかない私のそれとは比べものにならないだろう。そんな私でさえも、この日を特別なものと感じているのだ。よみがえられたキリストに会える日が待ち遠しい。