映画のようではないけれど

まぁ、どうでもいいことなんだろうけど、私は映画が好きである。なぜ映画が好きなのかというと、理由は単純である。非日常を味わうことができるからだ。だからスクリーンの上で「こんなことは私の人生で起こり得ないだろう」というような出来事が起こるのを見ると、その世界に引き込まれしまうのだから、制作者からすれば良い観客であろう。そんな私に言わせれば、模範的クリスチャンの回答ではないだろうが、宇宙人、宇宙船、謎の生物、ギャング、マフィア、ロボット、高級車、美女、武器・弾薬・兵器等々が出てくることこそが、映画の醍醐味であるといえよう。ちなみに私の妻の好みと言えば、男と女が出てきて、くっついたり離れたりして、最後はキスをしてめでたし、めでたしとなるような物が好きらしい。どうにも私には解せないのである。好いた男と女が一緒になるのと、宇宙船の乗組員が辺境の惑星で未知の生命体に襲われたり、時間を超えて未来からやってきたロボットが暴れたりするのと、どっちが「あり得ない」のか明らかであろうに。もっとも映画に求めるものが違うのであれば、仕方のないことかもしれない。

ところで映画のテーマとしてよく使われるのが、善と悪の対決であり、最後には善が勝つという勧善懲悪の世界観が主流である。映画の世界では正義の味方と悪役がはっきりしていることが多いので、単純に割り切って考えることができるので良いが、現実の世界ではなかなかそうはいかない。聖書的な視点から考えるのであれば、この世に義人はひとりもいないのであり、すべての人は神の前には罪人なのである。それゆえ正義が必ず勝つという単純な内容に惹かれてしまうのかもしれない。

ところで善悪の対立と考える時に、一般的に誤解されていることがひとつあるのではないかと私は思うのだ。それは神と悪魔の対立というものである。これをハリウッド的に考えるのであれば、神と悪魔が全世界を巻き込んで壮絶な戦いを繰り広げるわけで、いわゆる世の中で言われているところのハルマゲドンというものである。もちろんハルマゲドンと呼ばれている世界の終わりなどは起こらないというわけではない。遅かれ早かれ、それは起こるだろう。しかしそれが、いつどのようにして起こるのかを、予測することは不可能だ。人々が想像するようなハリウッドばりの善と悪との最終決戦がある可能性も否定はできないし、もしかしたらそうなる確率の方が高いかもしれない。しかしひとつだけ確かなことがある。そしてそれは世の中にはあまり知られていないことでもあろう。何であるかというと、その戦いの勝敗は既についているということだ。映画でありがちなように正義の方が劣勢で奇跡が起きて立場が逆転するというわけでもなければ、両者が対等な力を持っており先が見通せないというものでもない。

神は全知全能なるお方であり、この世界に存在するすべてのものは神によって創造されたのである。意外に思えるだろうが、悪魔でさえも神によって創造されたもののひとつなのだ。もちろん当初は悪魔ではなかった。一説では、最も力強く、最も美しい御使いだったとも言われている。悪魔が何者であるかは、本題ではないのでおいておくが、興味深いことにキリストに敵対する悪しき霊でさえも、キリストが何者であるか、また自らの置かれた立場を知っていたということだろう。聖書にはこのように記録されている。ちょうどキリストが弟子たちと会堂を訪れた時のことだった。「すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。『ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。』」(マルコの福音1章23〜24節)

おそらく会堂にいた群衆も弟子たちも、イエスが誰であるかを完全には知らなかったであろう。しかし汚れた霊―おそらく悪魔の手下なのだろう―はキリストが、神の聖者、日本語で言うといまいち分かりにくいが、英語で言うと”the Holy One of God”(KJV)意訳すると「神に属する、聖なるたった一人のお方」であることを知っていたのだ。そればかりか、そのお方は汚れた霊を滅ぼすために来られたということも。

改めて考えてみよう。キリストは死にも打ち勝ち、悪しき霊にも勝利されたお方なのである。このようなお方を頼るのであれば、一体人は何を恐れる必要があろうか。結末の見えている映画はつまらないが、確かな将来が自分自身に約束されていると知ることは、人の心に平安を与えるのではないだろうか。