病、癒やされ

私はだいたい年に二回くらい風邪をひく。それも毎年まるで決まっているかのように同じ時期である。それが最初から分かっているのであれば、健康管理に気をつけて風邪をひかないように心掛ければよいではないか、と思わないわけでもないのだが、どれだけ気をつけてもやはりひくものはひいてしまうのである。そんなわけで、おそらく体が休みを必要としているからであろうなどと勝手に都合の良いように解釈をしているのである。考えてもみれば、実際風邪をまったく健康体でいるよりは、年に二度くらい風邪をひくのがちょうど良いのではないかとも思える。なぜなら「体調不良」という理由で、事前の根回しや調整なしで仕事を休めるからだ。たまにはそんな突然の休養も良いものである。

とはいっても風邪をひくのは楽しいものではない。通勤電車に長いこと揺られて仕事に行く必要がなくなるのはありがたいが、医者に行ったら行ったで、他のもっと伝染力の強烈なウィルスを持っているのではないかと疑いたくなるような病人に囲まれながら、診察の順番を待つのである。運が悪ければ、大したことないと高を括っていたものが、周囲にも影響を及ぼすような大事になってしまいかねないので、それはそれで困ってしまう。さすがにそのようなことは極めてまれなことであろう。とはいえ風邪のデメリットと言うのは他にもある。熱を出してしまうことがその最たる物だ。熱を出すと、頭が重くなったり、寒気がしたりでどうにも不快極まりない。前にこんなことさえあった。熱を出した時に、ベッドの中で休みながらホラー小説を読んでいたわけだが、その後眠って夢を見たら、こともあろうか物語の世界に自分自身を登場させてしまったので、夢見の悪いことこの上なかった。いやはや、風邪は許容できるとしても発熱というのは歓迎できないというのが、多くの人たちが感じていることかもしれない。

そして熱が出てしまったら、まずは熱を下げたいと思うものだろう。薬を飲むなり、休むなり、人それぞれやり方はあるだろうが、目指すところに違いはあるまい。ところで世の中には意外な方法で熱を下げたことのある人がいたようだ。誰かと言えば、イエス・キリストの弟子シモンのしゅうとめである。しかも彼女の場合はただの風邪ではなく、熱病であったというから、相当やっかいな問題を抱えていたに違いない。しかし彼女の熱は奇跡的に下がったのだ。いや、むしろ奇跡そのものだろう。聖書にはこのように書かれている。「ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした。」(マルコの福音1章30〜31節)

まず驚くことが二つある。ひとつはキリストが弟子の姑の手を取って起こしたら、彼女の熱がひいたことであり、もうひとつは熱の下がった彼女は、そのままキリストと弟子たちをもてなしたということである。普通に考えたら、熱病の患者を引っぱり起こすとは、ずいぶんと手荒なことのようにも思えるし、病み上がりの身で人をもてなすというのも、色んな意味でずいぶんと無茶なことのようにも思える。

ところでクリスチャンというのは、信仰が人の病を癒やすと考えてしまう傾向にあるのではないだろうか。確かにそれもあるかもしれないが、それがすべてというわけでもないだろう。信仰が最も大事なことかといえば、私はそうも思わない。シモンの姑がキリストが誰であるかを知って、彼を信仰していたとは考えられない。まだ彼は自分自身が何者であるかを公言していなかったからだ。おそらくシモンにしても彼の姑にしても、キリストを頼ることで癒やされようなどとは思いもしなかっただろう。むしろ大したもてなしもできずに申し訳ないと思っていたかもしれない。しかしキリストは誰に頼まれたでもなく自らの意思で、彼女の手を取って熱を下げられたのである。すなわち神がそれを望まれる時に、人は病から解放されると考えられるのではないか。神の慈しみの現れとも言えよう。

では神はなぜ人を慈しまれるのだろうか。なぜ奇跡が起きて、病は癒やされるのだろうか。それは人が人生を楽しむためだろうか。確かにそれもあるかもしれない。しかしそれよりも重要なことは、シモンの姑がそうしたように、与えられた健康で神に仕えることであろう。もちろんこれは病から癒やされた経験がなくとも言えるだろう。

そもそもどうして人はこの世に生かされているのか。それは神を礼拝するため、そして神に仕えるためであろう。これを無視してキリストの物語を読むことはできない。