キリストの目的

イエス・キリストは弟子シモンの姑の熱病を癒やした。ところがこれが大変な話題になってしまったようだ。昔から人の口に戸は立てられぬなどと言われているが、古今東西の関係なく、噂というのはあっという間に人々の間に広まってしまうものらしい。聖書にはこのように記録されている。「夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来た。こうして町中の者が戸口に集まって来た。」(マルコの福音1章32〜33節)この箇所を読むと気付くのだが、どうやらそれらの人々は自らの意思できたわけではなく、家族、友人、知人などに連れて来られたようである。そもそも自力で歩いてやってきたのであれば「連れて来た」とは書かれないだろう。そう考えてみると、シモンの実家の玄関前に集まった人々は、自分では動くことができないほどの重病人たちや重い傷を負った人たち、さもなくば霊に取り憑かれてどうしようもなく手の付けられないような人たちであったと考えることもできよう。私の勝手な想像でしかないが、文字通り死にそうな人々もその中にはいたのかもしれない。

さてキリストはどうしただろうか。せっかく弟子の家でもてなしを受けているのだから、一段落ついてからにしてくれなどとは言わなかった。そんなことを言うのは、おそらく私のような自分勝手な者くらいであろう。イエスが神の子であったことを考えると、彼は集まった人々をご覧になって、呆れもせず、嫌な顔も見せなかったに違いない。むしろ哀れみを感じたことだろうことは、聖書を読むと容易に想像がつくのだ。「イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。」(同34節)

やっとのことで人の波が去った後、果たしてイエスは休めることができたのだろうか。どれほど遅くまで起きて人々の病を癒やし、悪霊を追い出していたのか何とも書かれていないので分からないが、人数が集まっていたことを思うと、さすがにイエスが神の子であったとしてもそれなりの時間が掛かったことだろう。これが私だったら遅くまで起きていた翌日はゆっくりと休みたいと、それこそ昼まで寝ていたいと願うのであるが、イエスはそうではなかった。聖書にはこう書いてある。「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(同35節)貴重な朝の時間をのんびりと過ごさないとは実にもったいない、というのは私の感想であるが、貴重な朝の時間だからこそ、人々の活動が始まって喧噪に巻き込まれる前のひとときを祈りに費やすのが正解なのだろう。そんなことは言われるまでもなく分かっている。分かっているが、どうにも身も心もそちらに向かないのが現実であり、人間の弱みなのかもしれない。

それはそうと、神のひとり子であり、救い主でもあるイエス・キリストと、限りある人間でしかない私自身を比べてしまうのは、何となくイエスに申し訳なく思えるのである。しかしキリスト者としてはキリストを見本とすべきなのだろうから、どうしても比べてしまわずにはいられないのだ。そして毎度のように、私なんかにはキリストの真似など、とてもじゃないが無理だと気付かされるのだ。まぁ、無理なら無理なりに正しい心構えを持てば良いのかもしれないが、私の場合はどうでもいいやとなってしまうのだから、何というかタチが悪い。

さて聖書にはイエスのその後についてこう記されている。「イエスは彼らに言われた。『さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。』」(同38節)もう少しゆっくりすれば良いだろうに、などと言うのは所詮人間的な考えなのだろう。キリストがこの世界にやって来たのには目的があったのだ。それは彼自身が言っているように、福音を知らせることであった。与えられた時間の中で、少しでも多くの人々に福音、すなわち神の良い知らせを伝えるという使命を帯びていたのだ。そのような彼に、休んでいる余裕などなかったのだろう。

立場も性格もキリストと私では、当たり前のことだが、大違いである。しかしこの世界での目的はどうかと言えば、さほど違いはないだろう。キリストに倣うのであれば、私も神の福音を伝えていくために今のこの時を生きている、いや、生かされているのだろう。