見透かされる信仰

ガリラヤの各地をめぐった後、イエスは出発点であるカペナウムに戻ってきた。少しは休めるかと思いきや、相変わらず人々はイエスのところに集まってくるのだった。彼らの目的はただひとつ、病いから解放されることであった。とは、今回は言うことができないだろう。それというのも、これまでは集まった人々の九割程度は癒やしを求めていたかもしれないが、カペナウムに戻ってからは何かが変わったようである。何がどう変わったのか。それについては聖書に答えを見ることができるだろう。「それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。」(マルコの福音2章2節)

イエスは旅先の会堂で人々に話をしていたが、カペナウムに戻ってからは会堂だけではなく、人々が集まってきた時に神のことばを伝えていたようである。それを考えると、イエスが福音を語るのを聞くことを目的として、人々が集まってきたとしても不思議ではないだろう。そして彼が宗教家たちのようではなく、権威ある者のように話されるのを聞いた人々は、彼がただの「奇跡の人」ではないと感じていたのかもしれない。人々はキリストがそれ以上の存在、つまり何者であるかはっきりとは分からないまでも、権威ある存在としてみていたのだろう。であるとすれば、一部の人々がキリストに対して信仰にも通じる特別な敬意と畏怖の念を抱くようになっていた可能性もあるだろう。

そしてまたそれを裏付けるかのような出来事が聖書に記されている。「ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。」(同3〜4節)さてこれだけ読むと、今までイエスのところへやってきた人々と、何ら違うところがないではないかと言いたくなる。確かに様子を見るだけでは、病いにある友人を助けてもらいたいがために、四人組がイエスのところへやってきたと見えないこともない。友人をイエスの近くに連れて行きたいがために、屋根に穴を開けて宙吊りにしてしまうというのも、端から見れば、そこまで必死になって友人を助けたいのかと思われてしまいそうであるが、それもまた仕方がないだろう。だが彼らの本心がどこにあったのかを知っていた人物がいた。他ならぬイエス・キリストご自身である。聖書にはこのように書かれている。「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた。」(同5節)

キリストが四人の中に見出したものは信仰であったという。友人を癒やして欲しいという願いでもなければ、奇跡が起こることへの期待でもなかった。もちろんそのような思いもあっただろうが、それが全てではなかった。ところで四人の信仰とはどのようなものだったのだろうか。キリストが群衆にどのようなことを語っていたのか正確なところは分からないので、はたして彼らがどのような信仰を持っていたのかも定かなことは言えないだろう。しかしイエスが権威ある者として語っているというのは、誰もが感じていることであったろう。であるとすれば、もしかしたら四人組はイエスのことを、不思議な奇跡を起こして病を癒やされるお方としてではなく、権威を持って病を癒やすことのできるお方として見ていたのかもしれない。彼らは奇跡が起きるかもしれないという曖昧な期待ではなく、イエスであれば必ず癒やして下さるという確固とした期待を持っていたのだろう。その期待というのが信仰なのかもしれない。

ところで四人と対象的な人々というのが、その様子を見ていた、いわゆる「信仰」に熱心な学者たちだった。「その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。……彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、……」(同6、8節)イエスは彼らを信仰者とは見ていなかった。おそらく彼らにとって信仰とは、いかに伝統を守るかであって、神に対して揺るがない期待を持つことではなかったからではないだろうか。

人の信仰というのは、自分自身で量ることはできないだろうし、また他人が評価できるようなものでもないだろう。形式だけの信仰か、それとも神を絶対的に信頼しているのか、人の真意を見極めることができるのは、ただ神だけである。