取税人と律法学者

今の日本の消費税は5パーセントである。それを高いと見るか低いと見るかは、人それぞれであろうから、一概にどうとは言えないが、私に言わせれば低い方だと思う。それというのも、私がアメリカにいた頃は消費税が8パーセントだったからだ。それがどの程度のものであったかと言うと、こんな感じだ。99セントのハンバーガーを買おうと思って1ドル札を出しても、1セントのお釣りがくるどころか、7セント不足してしまうのである。この敗北感は経験した者でなければ分からないだろう。たかが8セント、されど8セント、である。

ところで税金と言えば、ちょうど今は税金の時期でもある。4月には固定資産税、5月には自動車税を払わねばならない。景気の良いときには固定資産税は一括で払っていたし、自動車税は通知が届いたら、すぐに払うようにしていたが、いやはやどうもここ最近は不景気で、固定資産税は分割で支払わざるをえないし、自動車税に至っては納期ぎりぎりか、5月の稼ぎで支払うことができなかったら、翌月の給料を待ってから支払わなければならないこともある。だったらいっそのこと残業してその分を稼げばいいのでは、とも考えたりするのだが、この時期に残業をしてしまうと、それはそれで社会保険料が上がってしまうので、実に困ったものである。税金を払わないで済むのであれば、何よりもありがたいことなのであるが、そんなうまい話があるわけない。好きで税金を払う人はいないだろうが、それでも普通に生活を営んでいれば、勝手に給与から引き落とされることもあるし、仕方なしに自分で振り込むのが一般的であろう。まず滅多なことがない限り、徴収官の訪問を受けることはないだろうし、実際に遭遇することもないだろう。

ところでイエスの時代には、取税人という職業の人々がいたという。当時の制度については知らないので、聖書に書かれていること以上のことは分からないが、彼らはユダヤ人から忌み嫌われる存在であった。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」(マルコの福音2章16節)これは律法学者たちが、イエスの行いについて弟子たちに質問した時の言葉である。当時の人々にとって、取税人は盗っ人と同じように見られていたという。なぜなら彼らは単純に税金を集めるだけでなく、多めに税金を徴収し、余った分を自分たちの懐に収めていたという。それだけでも十分に一般市民から反感を買うに値するのであるが、なお悪いことに、彼らはユダヤ人でありながら、ローマ政府のために税金を集めていたという。そういった取税人たちの姿は、盗っ人と売国奴を足し合わせた憎むべき存在として、多くのユダヤ人の目に映ったことだろう。罪人同様、社会から疎外された存在であった。

しかしそのような彼らであったが、イエス・キリストの目にはどのように映ったのだろうか。「イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、『わたしについて来なさい。』と言われた。すると彼は立ち上がって従った。それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。」(同14〜15節)少なくとも一人の取税人はキリストに声を掛けられたのだ。職業を考えても、この人物が立派な人物だったというわけでもなさそうである。しかしキリストにしてみれば、彼が正しい人物かどうかではなく、「ついて来なさい」というキリストのことばを受け入れるかどうかが重要だったのだ。そして彼はキリストに素直に従ったのだ。それが原因となって、自らを正しいとする律法学者たちから、キリストが非難されることになったのは、先に見た通りである。

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(同17節)これが律法学者たちの批判に対するキリストの反論だった。取りも直さず律法学者たちへの皮肉も込められている。神のひとり子、救い主はモーセの律法を重んずる学者たちや自らを清いと信じている宗教家たちのために存在するのではなく、取税人や罪人、また病に苦しむ人々や悪い霊に憑かれている人々を神の御国へ導くためにこの世界に来られたのである。キリストの声を聞いて従うのであれば、人は神と共にいることができるのだ。