安息日の主の働き

安息日というのは人が神を礼拝するために神が設けられたものであるということと、キリストは安息日にも主であるということは前回も見た通りだ。つまり一言で言ってしまうと、キリストは安息日の枠の外に存在されるお方であって、安息日やそれに関する当時のユダヤの様々な律法に縛られる理由など一つとしてなかったのである。だから彼が望みさえすればどんなことでもすることができたであろう。ところが律法学者や宗教家は、彼のすることなすことがいちいち気に入らなかったらしい。彼らの価値基準に従って判断するのであれば、彼のすることは律法や伝統に反するものであったからだ。彼らの目に映ったキリストというのは、ユダヤの王や救い主といった将来を期待させるような存在ではなく、それまで築き上げてきた秩序を崩してしまうような危険人物として映ったようである。

どうやらキリストを敵視していた人々は常に彼の行動に目を光らせていたようである。非難すべきところを見つけ出しては、彼のことを叩いてやろうと必死だったようだ。他人のあら探しをするというのは、いつの時代、どこの世界でも共通のことのようである。愚かしい人間の性というものだろうか。自分はそのような人間にはなるまいと思うのであるが、残念なことに私自身も例外ではあるまい。残念ながら、人というのは自分のことは棚に上げて、他人のことについては重箱の隅をつつく生き物らしい。そんなわけで律法学者らもイエスの失敗を見つけることに血眼になっていたようだ。聖書にもはっきりと書かれているではないか。「イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。」(マルコの福音3章1〜2節)

イエスは会堂に入って来られた。今更その理由を考えるまでもないだろう。今まで彼は会堂を訪ねては神の御国について語ってきた。それが今になって、変わったとも考えにくい。そして会堂には彼の話を聞くために多くの人々が集まっていたことだろう。これも今までと同じである。ところがまったく別の目的を持って会堂にやってきた人々もいた。これが学者、宗教家たちだった。冷静に考えてみれば、彼らはキリストを歓迎して然るべき立場にいるはずなのではないだろうか。しかし実際には彼らはキリストの話に耳を傾けることすらせずに、彼を訴えるための理由を探していたのである。群衆がキリストに傾倒していることに嫉妬を覚えて、単純にキリストの話に耳をふさぎたいというのであれば、まだその気持ちも分からぬでもない。だが訴えるためというからには、それは嫉みに端を発しているよりも、むしろ根底に恨みがあるのではないかとさえ思えてくる。

さて会堂には片手の自由が効かない人がいたという。イエスを訴えようと目論んでいた連中は、キリストがその人を癒やすかどうかを格好の機会と狙っていたらしい。一方イエスはどう考えていたのだろうか。聖書にはこのよう記録されている。「イエスは手のなえたその人に、『立って、真中に出なさい。』と言われた。それから彼らに、『安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。』と言われた。」(同3〜4節)

キリストは彼を訴えようと考えていた人々に、安息日にしてよいことは何であるかを問うのであった。善を行うのか、悪を行うのか。自らが正しいと考えていた彼らにとっては、善を行うことが安息日してもよいことであると考えたかもしれない。しかし彼らにとって善を行うとは、律法を守ること、伝統に従うことであった。だがキリストにとって善を行うということは、助けが必要な者がいれば助け、救いを求めている者がいれば救う、ただそれだけであった。キリストにしてみれば、今はひとりの人を癒やす機会でしかなかっただろう。「イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、『手を伸ばしなさい。』と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。」(同5節)

どうやら律法ですべてを治めようとする人々に対して、イエスは憤りよりも失望を感じたようだ。自らの信ずるところを追求するだけであればまだしも、彼らはキリストの働きを妨げ、ひいては助けを必要とする人々を遠ざけていることになるからだ。だがどのようなことがあろうとも、キリストはその思うところをなされるお方なのである。最後には、その人の手は、再び使えるようになったのだ。