どんな視点?

聖書を読むときに、ちょっと気になることがある。特に今のように新約聖書の福音書を読んでいるときに考えてしまうのであるが、私はどのような立場で、どのような視点から聖書を読み理解しようと努めたらよいのか、ということである。何を今更と、言われてしまうかもしれないが、ずいぶんと前から気になってしかたがないのだ。もちろん聖書を読むのに、正しい読み方が一つだけに限定されているとは思わないが、読むのであれば、なるべく正しく読みたいとも思うのだ。損得勘定というわけでもないが、読むからにはできるだけ多くを自分のものとして吸収したいということでもある。

ところで福音書というものであるが、ひとことで簡単に言ってしまえば、イエス・キリストの伝記のようなものである。それ故に、おそらく聖書の中では一番物語性がある書かもしれない。キリストが何をした、何を語った云々という具合である。クリスチャンでなくとも、イエス・キリストがどのような人物であったかを知りたいのであれば、さほど退屈せずに読むことができるであろう。そういう私自身も信仰を持つ前に、聖書を最初に読んだのは福音書であった。ちなみに新約聖書の最初に登場するマタイの福音書だけは、いきなり系譜で始まるので、これだけはちょっと閉口してしまう。もし私が最初に「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。……」なんてところから読もうものなら、聖書はなんてツマランものだろうと早々に投げ出してしまい、今の私はいなかったことだろう……まぁ、ちょっと大げさかもしれないが。何にせよ、ヨハネの福音から読んだのは幸いだった。いや、これも神に導かれてのことだったのだろう。

何やら話が脇に逸れてしまいそうであるが、福音書はイエス・キリストの物語であるが、同時に弟子たちのように彼と関係のあった周りの人々の物語でもあるとも言えよう。そう考えた時に、果たしてキリストの視点から読むべきなのか、それとも人々の立場から読むべきなのか、疑問に感じるのだ。

もちろんキリストの視点と言っても、自らをキリストに見立てて読むということではない。さすがにそれは恐れ多い。そういうことではなく、もし私がイエスのようにありたいと願うのであれば、どのように考えて、どのように行動すべきなのか、ということを考えるためにイエスの視点から読んでみるということである。もっとも私のような人間が言っても説得力に欠けるかもしれないが。また人々の立場から読むというのは、イエス・キリストと接するとは、どのようなことなのかを考えるためである。今の私と福音書に登場する人たちの一番の違いというのは、私は信仰という観点においてしかキリストと接することができないのだが、当時の人々は信仰があろうとなかろうと、手を伸ばせば触れられるくらいの近くにいるキリストと出会い会話を持つことができたのである。私がキリストを抽象的な存在としてしか捉えられない一方で、彼らは現実の存在としてのキリストを感じることができたのである。そのような人々の立場から聖書を読むのであれば、私もさらにキリストを身近に感じることができるのではないかと期待するのである。

もっともどちらも間違ってはいないだろうし、どちらかが優れているということでもないだろう。信仰を持って読む限りは、いずれも正しいと私は思う。

ところで福音書にでてくる登場人物はキリストと人々(キリストに従う人々、また彼を敵視する人々の両方いるが)だけかと思いきや、実はそうではない。「汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、『あなたこそ神の子です。』と叫ぶのであった。」(マルコの福音3章11節)何というか、あまりらしからぬキャラクターであるが、汚れた霊つまりは悪魔のことだ。さすがに彼らの立場から考えることはないだろうが、それでも彼らの言うことには真実が含まれている。本来であれば、神に挑戦するはずの彼らであるが、イエスのことを「神の子」と呼んでいるのだ。つまり悪魔でさえもひれ伏させるほどの権威をイエスは持っていたということである。言い換えるならば、悪魔でさえもキリストを神の子として認めていたのだ。

人はそれぞれの立場で様々な視点からキリストを見るだろう、歴史上の人物として見る人もいるだろう、偉大なる道徳の教師として見る人もいるだろう、それはそれで間違ってはいないだろう。神の子と宣言するにおいては、悪魔でさえも正しいと言える。しかし重要なのは、キリストを私たち自身との関係においてどのように捉えるかである。歴史上の偉人と見るか?それとも救い主として見るか?