赦されざる罪

どのような罪であっても神は赦して下さるというのが、いわゆるキリスト教的な考え方である。イエス・キリストの十字架での自己犠牲、すなわち時代と場所を越えたすべての人々のありとあらゆる罪の身代わりとなられたという事実がその根拠である。そこで疑問に思うのが、神でさえも赦すことのできない重い罪というのは果たして存在するのだろうかということである。たとえば神の子であり救い主でもあるイエスを裏切ったユダの罪はどうであろうか。信仰的もしくは道義的に考えて、彼のしたことは悪いことであるのは明白であるが、彼の犯した過ちが赦されるに値するかどうかという点に限定して考えるのであれば、それは赦されるに値する罪であると私は思う。だが彼が赦されたという記録はどこにもない。そう考えると彼はやはり赦されなかったのだろうと思う。しかしこれは結果としてユダが赦されなかっただけであろう。神が赦さなかったのではなくて、ユダが赦しを求めなかっただけではないか。

赦すことができるということと、実際に赦されるかどうかというのは、まったく別の話であろう。前者はいかなる罪をも赦すことができるという、神の情け深さ、慈悲深さを表すものであるとすれば、後者は人間の神の寛大さに対して、どのような態度を取るかの結果を表していると見ることができるのではないだろうか。残念ながら、世の中に悪が存在する様を見て、神は存在しないと言う人々がいるが、神の存在を知りたいのであれば、悪の有無ではなく、赦しの有無で考えるべきであろう。

ところで話は変わるが、私の記憶にある限り、聖書のどこにも明確に書かれていなかったと思うのだが、自殺は赦すことのできない罪というのが、クリスチャンの一般的な認識である。いや、クリスチャンでなくとも自殺が悪いことだというのは、自然と分かっている人が多いだろうと思う。聖書的に考えるのであれば、神が与えて下さった命を管理するのはその人に与えられた責任であり、それを投げ出すことは神に対する不義理であり、結果としては罪になるだろう。罪ならば赦しを請えばよいではないか、と思うのであるが、残念ながら自分自身の命を放棄した後では、赦しを請う機会はなくなってしまう。もっとも、これはクリスチャン一般の考え方であって、それが必ずしも正しいかどうかというと、それは分からない。聖書にもはっきりとそうだとは書かれているわけでもない。これは私個人の考えでしかないが、イエスを通して赦しを与えるまでに、人のことを慈しみ憐れむ神が、果たしてこの程度のことで人を赦さないとは、どうも考えられないのだ。

さて赦されない罪というのはないのかと言えば、実はそうでもない。赦されない罪があるとすれば、果たしてどのようなものがあるのだろうか。イエス・キリストのことばを借りると、こうである。「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」(マルコの福音3章28〜29節)

聖霊をけがすこと、これが赦されない罪なのである。これは永遠に赦されないという。「一生掛けて償う」というのは、たまに新聞などで目にするように、有罪判決を受けた者の決まり文句のようであるが、これについては「永遠」に赦されない、つまり決して赦されることがないのである。赦されないということに程度というものがあるとすれば、それこそ救いようがないほどに深刻なものなのである。

それでは聖霊をけがすとは、どのようなことなのだろうか。正直なところ、私には分からない。分からないから、聖書に教えてもらうしかない。「このように言われたのは、彼ら(律法学者たち)が、『イエスは、汚れた霊につかれている。』と言っていたからである。」(同30節)また少し戻ったところには、律法学者たちについて、このような記述がある。「また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、『彼は、ベルゼブルに取りつかれている。』と言い、『悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ。』とも言った。」(同22節)

神を知らないこと、神に背を向けること、神に怒ること、神を裏切ること、どのような罪であっても神は赦して下さる。しかし神のわざを悪魔のわざとすることだけは赦されない。考えてもみれば、赦しというのも神のわざではないか。人が聖霊をけがすのであれば、神の赦しはその人にとっては最初から存在しないことになるであろう。