兄弟

「人類みな兄弟。」これを聞いて、日本船舶振興会のテレビコマーシャルをまず最初に思い浮かべたのであれば、おそらく私と同じ世代か、もしくは私より上の世代の人たちであろう。そのようなことを考えていたら、何となくあのCMが懐かしく思えてくる。まったくどうでもいいことなのだが、ひとたび思い出してしまうと、あのCMはもうやっていないのだろうか、いつからやらなくなったのだろうかと、つい気になってしまうのだ。それにしても人類みな兄弟という発想は、ずいぶんと大げさというか、非現実的というか、理想論としてなら通用するかもしれないが、あまり日常生活の中では考えることのないものであろう。人は人、私は私というのが、私自身も含めて、もっぱら大多数の感じていることかもしれない。

ところでクリスチャンというのは、同じ信仰を持つ仲間を見つけると、兄弟とか姉妹とか呼ぶことが多い。一般的な総称、例えば”Brothers and sisters in Christ”として使うとか、クリスチャン同士での呼びかけで”Hey, brother!”とか”Hi, sister!”のように使うのであれば、アメリカでも幾度も経験したことがあるから違和感を感じることはないのである。これが日本に限ってのことなのか、それともアメリカが例外的なのか、他の国の事情が分からないから何とも言えないが、まるで敬称のようにしてこの兄弟とか姉妹とかを名前つける習わしが日本にはあるようだ。前にも何度か言ったことがあるかもしれないが、どうにもこれに慣れることができない。というよりも、正直言って煩わしく思える。そう呼ばれることに抵抗を感じるし、人のことをそう呼ぶことも避けている。クリスチャンの間では自然なことなのかもしれないが、どうにも申し訳なく感じるのだ。たとえ信仰を共有していたとしても、私は私だし、人は人なのである。同じ釜の飯を食ってるわけでもないし、同じ価値観を共有しているわけでもない。だいたい私のような不出来な人間を兄弟にさせてしまうのことが申し訳ない。

とはいえ、そのような使い方が好きではないからといって、信仰者はみな兄弟という考え方は否定しない。それというのも、キリストを信じるものは、すべて「神の家族」なのであるからだ。そして、これは私が勝手に言っているのではない。聖書に書かれていることであり、イエス・キリストご自身がそう言っているのだ。聖書にはこのようなことが記録されている。「イエスは彼らに答えて言われた。『わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。』そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。『ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。』」(マルコの福音3章34〜35節)

キリストの母親と兄弟たちが彼のところにやってきたのだが、あまりにも人がたくさんいたので、人をやって彼を呼ぼうとしたときの話である。見方によっては、肉親に対してなんとも冷たい態度を取るではないかと思えてしまうかもしれない。たしかに多くの見ず知らずの人たちを助けたキリストであったが、自分の母親や兄弟に対しては、あなたたちは誰ですか、と言わんばかりである。

そうは言っても、もちろんキリストは母親や兄弟たちの存在を認めなかったというわけでもないし、彼らをないがしろにしようとしたわけでもない。キリストが伝えようとしたのは、神を信じるすべての人々が彼にとっては母親であり、兄弟であり、姉妹であるということであろう。つまり彼にとってはすべての信仰者が肉親なのである。言い換えるのならば、実の家族を大事に思うように、彼はすべての人を大切に思ったのである。故に、キリストの神を信じるすべての者は、キリストにあってひとつの家族になるのだ。

そう考えてみると、私のような出来の悪いのがいても構わないのかもしれない。聖人君子でなければキリスト者にはなれないと考えるような人がいたとしても、私のような人間をみれば、そのような必要はないことに気付くかもしれない。だとすれば、多少なりとも私も役には立っていることになるだろう。まぁ、ただの言い訳なのかもしれないが。