決断すること

一般的に勘違いされそうなことだが、生まれつきのクリスチャンというのはこの世に存在しない。親が教会に通っているからと言って、子供が無条件にクリスチャンになるというわけでもない。信仰というのは家柄でもないし血筋でもない。おそらく世の中のクリスチャンに問うのであれば、生まれながらにしてクリスチャンであると自信を持って答えることのできる人は、おそらく一人もいないだろう。もしいるとしたら、その人はよほどの信仰者であるか、そうでなければ信仰というものを正しく理解できていないかのいずれかであろう。前者は大いに尊敬に値するが、後者は何というか、実に残念なことである。信じるという行為は生まれながらの性質ではなく、意図的な行動なのであって、その結果として人はクリスチャンとなるのである。ある種のステータスのようなものであると言えよう。

さて信仰を持つということは、個人で決めなければいけない。人は毎日様々な決断をしているのだが、程度の違いこそあれ根本では通じるところがある。かの有名なハムレットの”To be, or not to be, that is the question.”ではないが、人はキリストを認めるべきか、キリストの十字架における罪の赦しを受け入れるべきか、神を頼るべきか、聖書のことばをすなおに信じるべきかと、さんざんに考えたり、迷ったり、悩んだりした末に、神を信じる、もしくは信じないという決断に至るのである。少なくとも私の場合はそうであった。”To belive, or not to believe, that is the question.”とでも言ったところだろうか。

とは言っても、決断をするというのは単純なことではない。何であれ人は物事を決めるために、何らかの判断材料が必要になってくるものだ。たとえば朝会社に行く前にトイレに行くかどうかというささいなことでさえも色々とネタが必要になってくる。たとえば腹を壊しているか便秘気味かとか、会社に急いで行く必要があるかどうかとか、途中の要所要所における洋式便所の位置、混み具合を把握しているかどうかとか、色々と分析をして、トイレに行くことを見合わせるか、それともトイレに行っておくかと決めるのである。たかがトイレごときで何を大げさなことをと言われてしまうかもしれないが、片道1時間半の通勤では結構切実な問題だったりするわけだ。さて信仰を持つまでも同じことで、考えるための材料が必要である。そして最高の材料というのが、聖書であり、そこに書かれている神のことばのひとつひとつなのである。もし人に信仰を持つことを勧めようとするのであれば、まずはその材料となる神のことばを伝えていかねばなるまい。もちろんそれを人がどうするかは、その人自身の問題であるが。

ところでキリストはこう言っている。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」(マルコの福音4章3〜8節)キリストの有名なたとえ話であるが、神のことばを聞いて、人がどのような決断をするかについて述べられている。

すぐに喜んで信じるが、良いことばかりではないことに気付いて諦めてしまう人、信じてはいるものの、世の誘惑や日常の細々としたことに心を揺さぶられて成長が止まってしまう人、信じたことに対して忠実であろうとする人。つまり一つ目は信仰を諦めるという決断、そして二つ目はこの世のことを求めようという決断、最後に神のことばに従うという決断、まさしく三者三様である。

神のことばという材料が目の前に広げられた状態で、人には何らかの決断をする機会が与えられているのだ。もちろん何もしないという選択肢もあるだろうが、さすがにそれはもったいない。さすがに私には人にどうしろと言うことはできない。ただ、私ならどのような決断をするだろうか。三つ目の決断をしたいと思う考えるだろうが、実際には二つ目の決断をしてしまいそうな気がする。信仰を持つという私自身の決断は揺るぎないものであるが、何やら損をしている気がしないでもないのは、なぜだろうか。