隠されているもの

今年の夏も暑い。いや、夏が暑いのは毎年のことである。今まで我が家にはエアコンというものがなくて、暑い日には窓を全開にしたり、扇風機をフル稼働させたり、保冷剤やらアイスノンやらを利用したり、単純に氷を舐めたりと、それなりに思いつくありとあらゆる方法で涼を得ようと試みてきた。それなりに成果もあったのか、なんとか今年までやってこれたのである。それともうひとつ、今年はトイレの電球をLED電球に変更したのもよかったのかもしれない。戸建てではない我が家のトイレには窓というものがない。だから夏場は熱が篭りやすい。どれくらいかというと、ウォシュレットの温水のスイッチを切っていたとしても、朝一番でケツを洗うと、ぽかぽかのお湯になっているほどだ。そんな場所だから、電気をつけると、すぐに室温が上がり始めるのである。ところがありがたいことにLED電球というのは、触れてもあっちっちとならないくらいに発熱が極めて少ない。熱源がひとつ減っただけでも、結構快適になるのである。

だが今年は今までとは違う。なんと我が家にエアコンがやってきたのだ。これでどんなに暑くなっても怖いものなしである。世間では節電だなんだといわれているが、普段から節電に貢献しようと考えなくとも、結果としてそうなっているんだから、夏の暑い日くらいはエアコンをつけても悪くはないはずだ。なんてことを考えたりするわけだが、根っからの貧乏性なのか、電気代が惜しくて使わないでいるのだ。まさしく宝の持ち腐れである。何事も使ってこそ本来の能力を出すことができるのであれば、適宜使うべきなのだろう。これでは我が家のエアコンも、壁の飾り物でしかない。

ところでイエス・キリストはこのように言っている。「あかりを持って来るのは枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。」(マルコの福音4章21節)これを読んで真っ先に私の頭に浮かんだのは、同じ新約聖書の別の箇所にあるキリストのこのことばである。「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。」(マタイの福音5章14〜15節)

イエスの同じ発言を別の人物が記録しているのかとも考えたのだが、読み直すと違うようでもある。前者は湖のほとりで弟子たちに語ったことばであり、後者は山の上で弟子と群衆に向けたことばである。時と場所、聞き手は違えども、おそらく言わんとしていることは同じであろう。信仰を持つ者は世の光として、物陰に隠れたりせず、世界を照らすような姿勢でいなければ、本当の価値を表すことにはならないということだろう。宝の持ち腐れならぬ信仰の持ち腐れになってしまわないようにと言わんとしたのだろうか。

しかしイエスが言いたかったことは果たしてそれだけなのかと、私は疑問に思うのである。キリストは先ほどのことばの続きでこう言っている。「隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。」(マルコの福音4章22節)山の上でイエスが話された時の主語は「あなた」つまり信仰者であったが、湖のほとりでイエスが話された時の主語は「隠れいているの」「おおい隠されているの」である。この違いは意味があるのではないかと私は思うのだ。

それでは一体何が覆い隠されているとキリストは言っているのだろうかと、新たな疑問が湧いてくる。前後の箇所から考えてみると、もしかしたら神の国を示しているのではないかと私は考えるのだ。その理由を挙げるとすれば、キリストはこの直前に蒔かれた種の例え話で、どのような者が神の国を相続するかを説いており、この後に続く箇所では、神の国がどのようなものであるかを説明しているからだ。

もしそうだとすれば、おそらくキリストがここで伝えようとしているのは、神の国は隠されるようなものではなく、明らかにされて然るべきものであるということではないだろうか。そう考えてみると、神の国の福音を人々に告げ知らせるためにこの地上に来られたイエス・キリストの目的とまさしく合致するではないか。神の国とは一部の選ばれた人々のためのものではない。すべての人々のために存在しており、神の赦しを受け入れさえすれば、誰でも分け隔てることなく受け入れられる場所なのである。