聞きなさい

人の話はきちんと聞くものである。それが相手に対する礼儀というものであるし、相手が話している点において自らよりも優れているのであれば、それが学ぶということのひとつでもある。しかしひとことで話を聞くと言っても、その聞き方は様々であろう。相手の話すことを一字一句漏らさないようにと真剣に聞くこともあるだろうし、漫然と右の耳から入って左の耳から抜けていくかのような聞き方もあるだろう。もしくは前者のような格好をしているにも関わらず、実際は後者だったということもあるだろう。もしくはまじめに聞いているつもりでも、途中から注意が余所に向いてしまうこともあるだろう。もちろん人間は完璧ではないから、常に真剣に話を聞くことはできないだろう。

さて人の話を聞くというのは、あながち時間の無駄にはならないだろうと私は思っている。こちらが急いでいる時や忙しい時には、たしかにそう感じてしまうことが多いかもしれないが、相手が聞くにも値しない余程の無駄話をしているのでなければ、聞いて損になるものでもあるまい。たとえばコーヒー屋で隣の席に座っている人たちの会話に耳を傾けるのもなかなか愉快なものである。要するに、盗み聞きだ。たとえば今私がこれを書いている隣では、中年女性と若い女性が脱毛の話をしていたりするのだ……いや、やっぱり時間の無駄かもしれない。そうは言っても、いろいろな人たちの話を聞くと、世の中には色んな人がいるもんだと思うのだ。百聞は一見にしかず、とは言うけれど、何も聞かないよりは聞いた方が世界は広がるのではなかろうか。

ところでイエス・キリストは人々に話している時に、このように念を押している。「聞く耳のある者は聞きなさい。」(マルコの福音4章23節)またこう続けている。「聞いていることによく注意しなさい。……」(同24節)

何を注意して聞けばよいのだろうか。もちろんキリストの話をしっかりと聞きなさいということである。ではキリストの話とは何であろうか。前回、前々回に見たところを振り返ってみると、キリストはひとつのテーマを中心に話しているのではないかと考えられよう。それが何であるかと言えば、神の国についてである。実際キリストは福音、すなわち神の国の到来という良い知らせを人々に告げ知らせるために行動してきたではないか。(同1章15節)

今改めてキリストの言っていることについて考えてみたい。「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。」(同4章24〜25節)

キリストの話すことをただ聞くだけでは十分ではないということだろう。ただ聞くだけではなく、注意するようにと言っている。注意と言われてもどうもピンとこないかもしれない。聞き漏らさないように注意しなさいということだろうかとも考えるのだが、どうも違うようでもある。たとえば、英語の聖書(NIV)ではこう表現されている”Consider carefully what you hear,”直訳すると「あなたが聞いたことを注意深く、熟慮しなさい」ということになる。さらにリビングバイブルでは「聞いたことは必ず実行しなさい。」と書かれている。つまりキリストの話を聞いたのであれば、ただ聞くだけではまだ足りないということである。もちろん聞かないよりは、せめて聞くだけでもよいのかもしれないが、それでは惜しいことをしているのかもしれない。

それではなぜ聞くだけでは十分ではないのか。確かにキリストの言葉を聞くことで得られるものは多い。しかし自分で聞いて、自分で納得しているだけでは、それでは自分ひとりだけの祝福にしかならないのではないか。もちろんそれだけでも構わないというのであれば、聞くだけでもいいだろう。だが自分ひとりで満足していて本当によいのだろうか。ちょっと前にイエスはたとえ話でこう言ったはずだ。「別の種が……実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」(同20節)

キリストが話され、私たちが聞いたよい知らせ、その知らせをさらに多くの人に伝えることが多くの実を結ぶことになるのだろう。そして多くの実を結ぶということは、決して自分が何かを失うということではない。それどころか、さらに多くの祝福を得られるかもしれないのだ。