種を蒔いて

考えてみると、一体いつの頃から始まったのか分からないが、小学一年生の夏休みの宿題には、決まって朝顔の観察がある。もしかしたら、地方によって違いがあるかもしれないが、少なくとも私の通っていた小学校では、一年生の頃に朝顔を育てた記憶がある。やはり私の長女が一年生の頃にも朝顔を育てていたし、今年一年になった次女も同じように朝顔の面倒を見ている。たまに地元ではない場所で、朝顔の植えられた学童用のプラスチックのプランターを見掛けることもあるので、どうやら横浜市立の小学校に限られたことではなさそうである。

朝顔の種というと、あの黒くてごつごつした種を思い出すのだが、私の記憶に間違いがなければ、植える前に水に漬けておいたと思う。おそらくそうした方が芽が出やすいとか、何か理由があったのだろう。改めて考えてみれば、その種も一本の朝顔の蔓からたくさん取れるのだから、夏の始まりに一人の生徒に数粒渡して育てさせれば、夏休みが明けた頃には、その倍になって返ってくるのである。その種を翌年の一年生に渡すのであれば、学校としては教材費の節約になってよいのかもしれない。蒔いた種が倍になるということの、わかりやすい例でもある。

さてキリストは神の国について語ってきたが、今回はこのように説明している。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」(マルコの福音4章26~29節)

種を蒔くというのは、みことばを蒔く(同15節)、つまり神の国の良い知らせを蒔くということであろう。人はみことばを蒔いた後、どうするのが良いのだろうか。キリストのことばをそのまま受け取るのであれば、何もしないということになるだろう。果報は寝て待て、ではないが、考え方としては通じるところがある。私のように、どちらかと言えば、あまり熱心ではない信仰者にとっては朗報であろう。もし人に神のみことばを伝えようと願うのであれば、牧師になるか、宣教師になるか、あるいは伝道者になるか、などと考えるかもしれない。確かにそれも方法のひとつであるが、唯一の方法ではないのだ。もしそれ以外の手段がないのであれば、神の福音を伝えるということは、ずいぶんと敷居の高いものになってしまうだろう。果たして神がそのような無理難題を信仰者に求めるだろうか。

だが、そのような難しいことを神は求めていないだろう。信仰者であれば誰でもできることとは、種を蒔くことである。それだけで十分と言ってもいいだろう。蒔きっぱなしは無責任だとか、不十分じゃないかとか、あれこれとまじめに考えてしまうと、どうにも申し訳ないというか、後ろめたい気がしないでもないが、イエス・キリストご自身が「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。」と仰っているのだから、蒔いた種は放っておいてもいいのだろう。

では、みことばの種を蒔くとは、どういうことだろうか。さすがにキリストはそこまでは説明していないが、あまり深く考えずに、概ね文字通りに受け取っても構わないのではないかと私は思う。それこそ紙切れに聖書のことばを書いてばらまいても、みことばの種を蒔いたことに違いはないだろう。もっともそれは極端な例であって、本当に紙切れをばらまいたらゴミと勘違いされて、世間からブーイングを受けてしまうだろう。ちょうど朝顔の種を水に浸しておくように、種が芽生えやすいようにもう少し考える必要はあるだろう。たとえば手紙の末尾に書き添えるとか、もしくは今の時代らしくメールの署名やSNSのプロフィールに載せるでもいいだろう。ちなみに私はどうかといえば、車のナンバーフレームにブログのアドレスと一緒に載せているから、興味本位でアクセスしてきた人たちに種を蒔いたことになるだろう。

ところでなぜ種を蒔くだけでいいのだろうか。それはいくら人が頑張ったところで、他人に信仰を持たせることができないからであろう。結局のところ、種を蒔くのが精一杯というのが現実なのである。それというのも、信仰とは神と人の間で交わされるものであって、そこに第三者が介入することができないからだ。蒔かれた種がその人の中で芽生えるかどうか、それはその人自身が決めることなのだから。