眠れるイエス

自慢じゃないが、私は寝起きが悪い。はっきり言って、朝起きるのが苦手である。夜更かしせずに早く寝ればいいじゃないかと言われてしまうと、まぁその通りなのだが、仕事を終えて帰ってくると、もはや早く寝るという時間を過ぎてしまっているのだから、早寝というのも現実的な話ではない。そうは言っても物は考えようというか、ただのごまかしかもしれないが、寝起きが悪いということは、見方を変えれば、一度眠りについたら滅多なことでは目を覚まさないという利点―はたしてそうと呼べるのかどうか怪しい―もある。雷が鳴ろうが、大雨が降ろうが、地震が起ころうが、まず起きることはない。気付かないのではなくて、起きないのである。眠りながら何かが起こっていることを、うっすらと意識はしているのだが、眠気の方が勝っているのか、それとも意地でも寝てやろうという潜在的な思いが働いているか、とにかく起きない。しかしさすがの私でも、先日までの熱帯夜では、たまに目を覚ますこともあった。眠気よりもあの暑さに生命の危険を感じたのかもしれない。

さて自慢にならない私の寝起きの悪さであるが、実はイエス・キリストも寝起きが悪かったのではないかと、私に連想させてしまうような出来事が聖書には書かれている。「さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸へ渡ろう。』と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。『先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。』」(マルコの福音4章35~38節)

いつのことかというと、前回まで見たように、キリストが弟子たちに神の国について教えた後のことであった。集まった群衆に向けて話したことによる適度な疲れと、弟子たちに教えたいことを伝えたという達成感がに加えて、舟に揺られて、すっかり心地よくなって眠ってしまったのだろうか。なるほど、そうだとすればイエスの気持ちが分からないでもない。電車に乗ると眠くなってしまうあの感覚に似ているのだろう。あの揺れ心地がなんとも良い感じで、そのまま乗り過ごしてしまったことがあるのは、私だけではないはずだ。

ではイエスを舟に乗せた一行は穏やかな湖面を進んで行ったかというと、残念ながらそうではなかった。なんと突然の嵐に見舞われしまったのである。波が高くなってきたとか、雨が降ってきたとか、風が出てきたとか、そんな甘いものではなかったらしい。舟が「波をかぶって水でいっぱい」になる程だったというから、放っておいたら転覆して沈没してしまうくらいだったのだろう。おそらく乗っていた弟子たちは必死になって、手近にある使えそうなものなら何でも構わないくらいの勢いで、水を掻き出していたことだろう。彼らがどれほど切迫した状況にあったかは、想像するに難しくはない。手元の新改訳聖書では、たった三十文字以内でしか記録されていないが、巻き込まれた人々にとってはまさしく生死の境目であったろう。舟の上は大騒ぎだったが、肝心のイエスは「枕をして眠って」いたのだ。座ってうとうとしていたのではない。枕まで持ち出して、本気で寝ていたのだ。おそらく弟子たちは遠慮して、邪魔しないでおこうと考えたのだろうが、とうとう我慢できなくなったらしい。「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」

もし私だったら人がおぼれそうだろうが舟が沈みそうだろうが、無視して眠り続けて、最後には自身が土左衛門になっていただろう。しかしイエスは違った。「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に『黙れ、静まれ。』と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。」(同39節)

ところでふと考えたのだが、果たしてイエスがわざわざ起きて、風と湖に静まれと命じる必要はあったのだろうか。イエスが起きなかったとしても、彼らは守られたのではないかと私は思う。それというのも、ことばでもって嵐を静めたということは、キリストは自然現象に対しても権威を持っていることであり、嵐を超えた存在であるキリストが大波で湖の底に沈むことはないからだ。つまりイエスと共にいる限り、いかなる大嵐の中でも弟子たちは安全な場所にいたということになるのではないか。イエス・キリストが眠れる場所、そこは人にとっても最も安全なところなのだろう。