奇跡の不思議

聖書と切り離して考えることのできない関係にあるのが、奇跡というものであろう。ざっと思い付くだけでも、二匹の魚と五つのパンで数千人が満足に食事をすることができたとか、死んだと思っていた人間が生き返ったとか、まずまず普通では考えられないことばかりである。もっとも思い付かないからこそ奇跡というのであろう。さて、これは先入観というか思い込みというか、それとも単なる期待と言うべきなのか、奇跡と聞くと、何やら喜ばしいことや、好ましいことを連想してしまうのではないだろうか。もちろん、それでほぼ間違ってはいないのだが、奇跡というのは、時には奇妙な、見ようによっては不可解な結果を起こすこともある。

さてイエスと弟子たちが、大荒れに荒れ狂った湖を渡ってきたということは前回も見た通りである。ようやく対岸にたどり着いたのであるが、そこで彼らを待ち受けていたものは、イエスの話を聞こうと集まってきた群衆であったかと言えば、そうではなかった。では誰の出迎えもなく、ようやく静かな時を過ごすことができたかと言えば、そうでもなかった。では彼らが到着したときに誰が迎えにきたのだろうか。聖書にはこのように書かれている。「イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。」(マルコの福音5章2節)

こともあろうに、悪い霊に取り憑かれた者が来たのである。神の子であるイエス・キリストを迎えるには、一番「らしくない」人物ではないか。この者について聖書にはこう書かれている。「この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである。それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。」(同3~5節)

とんでもない人物である。文字通りに狂人という以外の呼びようがあるだろうか。近隣の住人たちも彼を恐れていたのか、鎖で彼を縛り付けたことが度々あったようだ。ところが床は鎖をちぎったというから、恐ろしい怪力の持ち主であったに違いない。そのような人物を前にして、イエスがどうされたかは、だいたい想像が付くだろう。「汚れた霊よ。この人から出て行け。」(同8節)彼はその男が悪い霊の影響で、自らを傷つけている姿を見て気の毒に思ったに違いない。彼はその男を苦しめている悪い霊から、男を解放しようとしたのだ。

さて興味深いことに悪い霊に憑かれた狂人はイエスに反抗するようなことはしなかった。普通に考えれば「悪い霊は悪い、キリストは善いお方、よって悪い霊はキリストに抗う」という図式が成り立ちそうなものであるが、現実はそうではない。「彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、大声で叫んで言った。『いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。』」(同6~7節)

さすがに悪い霊といえども神の子には逆らえない。たとえ逆らったとしても、キリストには勝ち得ないことが分かっていたのだろう。いかに人間を苦しめた霊であっても、神の子を前にしては命乞い(?)をするしかなかった。しかし己の立場を知っていたのか、赦して下さいとも言えなかったようだ。その代わりに悪い霊が求めたのはこのようなものだった「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」(同12節)私には理由は分からないが、悪い霊はその地方から離れたくはなかったようだ。(同10節)そのため、彼らは他の何かに取り憑くことを望み、その対象が豚だったのである。これまた私には理由は分からないが、イエスは彼らの希望を認めた。そしてどうなったか……悪い霊は二千匹の豚に乗り移ったうえに、崖から湖に転落し、溺死してしまったのだ。

一人の男が悪い霊から解放されたという奇跡である。だが不思議と言わざるを得ない結末でもある。どうしてこうなったのか、などと考えてもおそらく答えは見つからないだろう。神のなさることは、人の理解を超えたものであり、そのような神を理解することは、どれほど時間を掛けようとも、努力をしようとも不可能であろう。であればこそ、人にできることは、神を理解するのではなく、神を信じ受け入れることなのかもしれない。