立ち去るキリスト

ふと思い出したかのように、何の脈絡も無く、突然に考えることがある。そもそも信仰とは何であろうかと。いや、もちろんその答えが分からないわけではない。答えは何となく分かっているのだが、その意味というか、それとも重要性というか、はたまた真意というか、うまく言葉では言い表せないのだが、そのようなことを漠然と考えてしまうのだ。イエス・キリストを救い主として受け入れている、いわゆる世間一般で言うところの「クリスチャン」である私にとって、信仰の対象とは天地万物を創造された神のみである。なかなか言葉で表すのは難しい。もちろん天地万物を創造されたというのは、神がどのような存在であるかを表すためのひとつの言い方でしかない。神はそれ以上の存在である。ベツレヘムの厩で生まれた小さな赤ん坊として生まれたイエス・キリストも、やはり神の姿のひとつであり、そのキリストが天の昇られた後に、弟子たちを導くために現れた聖霊も、同様に神のひとつの姿である。おそらく人には完全に理解することはできないだろう。だから簡単にひとことで言ってしまうと、神は人間の理解や想像をはるかに超えた存在である。そして信仰とは、その神と人間との関係であろう。私にとって信仰とは、神と私の間にある極めて私的な関係なのだ。

勘違いしがちだが、毎週欠かさずに教会に行くことが信仰ではない、日々聖書を読むことが信仰でもない、絶えず祈ることが信仰でもない。まじめに生きることが信仰でもなければ、人を慈しんだり思いやったりすることが信仰でもない。伝道や奉仕に時間や労力を費やすことも信仰ではない。それらは、信仰が目に見える形として現れたものでしかない。もちろんそれはそれで大事なことであるし、信仰に生きているとの自負があるのならば、具体的な言動や行動に現れるに違いない。だが、それが信仰であるかというと、それはちょっと違うのではないだろうか。

これは私の考えでしかないが、信仰とは人が神に対してのみ抱くことのできる意思であり、気持ちであり、感情であろう。神との関係がなければ、どれほどクリスチャンらしく振る舞おうとも、どれだけ世の中に貢献しようとも、いかに人々を愛し、人々に優しくしようとも、それが神に対する信仰の現れでないとしたら、たとえそれが純粋な善意からであったとしても、やがては滅びゆく人間のためでしかなく、考えてみれば空しいものではないか。

さて無駄に前置きが長くなった。そのようなことを考えると、聖書を読むということは、道徳的なことや人生の指針を見出すためではなく、神はどのようなお方なのかを知るために読んだ方が、得られるものが多いのではないだろうか。そして福音書ではキリストの働きが中心に書かれている。つまり福音書を読むことの最大の恩恵は、誰でも救い主であるキリストに出会うことができるというところにあるのではないだろうか。それを念頭に置いて、続けてマルコの福音を読んでいこうと思う。「イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。安息日になったとき、会堂で教え始められた。」(マルコの福音6章1〜2節)

キリストは弟子と一緒に故郷に戻った。日本人の感覚で言えば帰省のようなものであろうか。もっとも帰省というと、慣れ親しんだ場所で心と体を休めるという印象があるが、キリストにはまったく別の考えがあったようだ。神の福音を伝えるということが彼の帰省の理由だった。奇跡を行う人、神の国を伝える人が帰ってきたと知れば郷里の人々は大歓迎で彼ら一行を出迎えてもおかしくはないが、現実は違った。「この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」(同3節)彼はまったく相手にされなかったばかりか、彼は人々に蔑まれたのだった。その後のことは聖書に書かれている。「それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。」(同5〜6節)

キリストはあえて人々に教えを無理強いせず、また彼らを罰することもなかった。ただキリストは故郷を去って他の村へ福音を伝えに行っただけだった。キリストは信仰の押し売りをすることはない。私たちが信仰を持つかどうかの責任は、人である私たちの側にあるということだろう。