迷える者

もうかれこれ二十年ほど前のことだろうか……いやはや二十年前の物語ができるとは、私もずいぶんと長生きしたものである。この先も大病を患わず、大きな怪我もせずに、順風満帆に生きるとして、人の一生が八十年だとしたら、おおよそ半分を過ぎたことになる。まだ半分も残っているのかと考えると、空恐ろしくも感じられる。それはさておき二十年前の話である。まだ私が信仰を持つ前のことだ。当時アメリカに住んでいた私は、誘われて聖書の勉強会に参加していた。聖書と出会ったばかりのことで、時間を見つけては聖書を読んでいたものである。もしかしたら、今よりも真剣になって読んでいたかもしれないほどだ。正直、今はだれてしまってダメである。それはさておき、聖書の学びでマルコの福音を読んでいた時のことだ。ちょうど今私が見ている箇所と同じである。バプテスマのヨハネの死について記されている、このくだりを読んでいた。「そこで王は、すぐに護衛兵をやって、ヨハネの首を持って来るように命令した。護衛兵は行って、牢の中でヨハネの首をはね、その首を盆に載せて持って来て、少女に渡した。少女は、それを母親に渡した。」(マルコの福音6章27〜28節)

ここを初めて読んだ私がどのように反応したかと言えば……不覚にも大笑いをしてしまった。それこそ笑いが収まらず、涙を流すほどであった。いや、さすがに未信者だったとはいえ、ヨハネの死を笑ったわけではない。ただその情景を想像してしまった時に、あまりの非日常さというか異常な様子に、滑稽味を覚えただけである。今になって振り返ってみれば、何とも不謹慎に思われたかもしれない。だがそうは言っても、笑いのツボにはまってしまったのだから、どうしようもなかった。

さて私の昔話はこれくらいにして、さらに二千年ほど遡るとしよう。ヨハネの弟子たちは、師を失った後、イエスのところにやってきて、何が起こったのかを伝えたという。「そこでイエスは彼らに、『さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。』と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。」(同31節)同じ神を信じる者たち、同じ目的のために働く者たちへのイエスのことばである。彼はヨハネの弟子たちを「心配するな」と励ましたわけでもなかったし、「この程度で躓くな」と発破を掛けたわけでもなかった。「食事をして、休みなさい」と、彼ら労っただけである。イエスは彼らの限界に気付いており、彼らがもっとも必要としていたものを知っていたに違いない。これが失意の中にある人々に対する、キリストの優しさなのだろう。

その一方でイエスと弟子たちを取り巻く状況は相変わらずであった。人々はイエスを求めて、彼のいるところへ集まってくるのだった。それどころか、先回りして待ち構えていたというほどだ。だがイエスは彼らを避けることはしなかったし、彼らのことを面倒だと思ったこともなかったようだ。聖書にはこのように書かれている。「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。」(同34節)

イエス・キリストは彼らを憐れんだ。同じ箇所が、英語(KJV)ではこう表現されている。”And Jesus, when he came out, saw much people, and was moved with compassion toward them,”訳すと「イエスは彼らへの憐れみによって動かされた」とでも言おうか。個人的な感想であるが、こちらの方が、イエスの様子がよく表されているのではないかと思う。深く憐れんだ、たしかにイエスがどう感じられたかは伝わる。しかし、憐れみで動かされた、と言われると、イエスの心の動きがより現実のものとして伝わってくるようだ。「羊飼いのいない羊のよう」(同34節)に集まっている人々、導く者もなく、どこへ向かうのかも分からずに迷っている人々を見て、キリストは可哀想にと思っただけではなかった。人々に対する情けはキリストを動かし、彼は人々に教え始めたのだった。

神は天から人々の営みをご覧になっているだけでない。迷っている人々をご覧になって、ただ憐れんで下さるだけではない。神はそのような人々が迷わずに済むように教え、導いて下さるのだ。聖書のことばではないが、迷える者は幸いということであろうか。なぜなら神はそのような者を導いて下さるのだから。