水の上を歩く

水蜘蛛というものがある。蜘蛛が付くが、生き物のことではない。生き物の方は「ミズグモ」である。どうでもいいが、実は絶滅危惧種らしい。一方漢字で書く方は、忍者が水面を渡るために足に着ける、下駄に木の板をつけた、かんじきのような道具のことである。もちろん忍者が本当にそのような道具を使ったのかどうかは分からない。残念なことに、足に履ける程度の大きさのものでは、バランスを取ることができないというのが現実らしい。どうしても実現したいのであれば、浮き輪程の大きさのものが必要で、なおかつ支えるために杖が必要だとか。 そうは言っても、本当のことは今となっては誰も分からない。もしかしたら忍者が活躍していたとされる戦国期には、本当にそのような水蜘蛛で濠を渡って敵の城に忍び込んだ者もいたかもしれない。誇張されているところもあるかもしれないが、そうやって考えた方が、ちょっと楽しいものであろう。

そもそも陸上で二足歩行をするのが主な移動手段である人間にとって、水を渡るというのは、容易なことではない。泳ぐとか、舟に乗るとか、それなりの訓練が必要になる。しかしどれだけ頑張ったところで、水の上を歩くというのは、できないことである。では人間じゃなければできるのかといえば、人間以外の生き物でも、水の上を歩くというのは聞いたことが無い。アメンボがいるじゃないかと言うかもしれないが、あれも池や川の上を歩いているわけではない。水の表面張力に支えられて、沈まないで水面を滑っているだけである。

と人の常識で考えれば、人間が水の上を歩くなどということは起こり得ないことなのである。どれだけ頑張ったところで、無理なことは無理なのである。ただし、例外がないわけではない。大げさな言い回しかもしれないが、人類の歴史を通じて、水の上を歩いた者が一人だけいるのだ。「イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。」(マタイの福音6章48節)

なんとイエス・キリストは湖の上を歩いてやってきたのである。泳いできたわけでもなければ、舟に乗ってきたわけでもない。歩いてきたのである。むしろ空を飛んでやってきたとか、突然弟子の舟に現れたという方が、いかにも神の子という雰囲気で、分かりやすいと思うのだが、丘の上を歩くかのように、てくてくと水の上を歩いてきたのである。

弟子たちが最後にイエスを見たのは、彼らが湖に漕ぎ出すときだった。イエスはひとり陸に残っていたという。おそらく彼らの頭の中では、イエスはまだ岸辺に残って祈っているか、休んでいるか、さもなければ人を助けているか、何かをしているものと考えていたのだろう。ところが夜中の三時くらい、まさしく丑三つ時に、歩いて近づいてくる人影が見えたものだから、彼らの驚きは相当であったろう。「しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。」(同49節)

どうも最初はイエスだと見分けられなかったようで、幽霊と勘違いをしてしまい、声を上げてしまったという。状況を考えると無理からぬことであろうと思う。人間が水の上を歩くことはない。つまり水の上を歩いてきたということは、人間では無いということになる。しかし人間でないけど、人間の姿形をしているということは……もしかして幽霊では、という結果になったのであろう。当時のユダヤ人の間でも幽霊という概念があったというのは、ちょっと意外ではあるが、それはそれとして「イエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。』と言われた。」(同50節)

それにしても考えようによっては、イエスも時におもしろいこと(?)をなさるお方である。最初は弟子たちを見ても「そのままそばを通り過ぎようと」していたのだ。弟子たちが難儀しているのをよそ目に、さっさと先に行ってしまおうと考えたのだろう。もちろん彼らを困らせようと考えたわけではないだろう。キリストは湖の対岸で彼のことを待ちわびている人々に思いを馳せていただけかもしれない。

キリストは神として、自然の力に縛られることはなかった。だから彼にとっては水の上を歩くことも、陸を歩くことと同じで当然のことで簡単なことだったのだろう。しかし弟子たちを無視して先に行こうとした挙げ句、彼らに幽霊と間違われしまうという、やけに人間らしい一面も見せている。まさしく神であり、人であるキリストの姿を見ることができよう。