不思議なやり方

いつどこで聞いたのかよく覚えていないが、歌詞に”God works in a mysterious way”というフレーズのあるクリスチャンミュージックを聞いたことがある。もしかしたらまだ私がアメリカにいた頃にラジオで流れたいたのを聞いたのかもしれないし、そうでなければ私の持っているCDのどこかに入っていたのかもしれない。が、細かいことはどうでもいい。あえて訳すまでもないだろうが、神は不思議なやり方で働かれるということだ。不思議というからには、人の想像もつかないやり方を選ばれるということである。

そもそも世界の初めの、天地創造の物語からしても人の理解をはるかに超えていると言っても差し支えないだろう。「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。……天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」(創世記1章6、9節)神がそう仰っただけで、地球はできたのである。普通に考えれば、そんな馬鹿な話があるものかと思うような内容であるが、それが聖書に記録された内容なのである。もしこの箇所が「神は宇宙の塵を集めて地球を創造された」とでも書かれていたとしたら、まぁ、それでも十分に不思議なことに違いはないが、神御自身が手足を動かして働いているような場面をイメージしてしまいそうになる。もちろん、それならそれで神が人と同じように行動しているかのようで、神に対する親しみというのも湧いてくるとも言えよう。

だが神はことばでもってこの世界を創られたのだ。人間の理解を超えた方法であることは確かである。なぜなら、ことばだけで何かを作るというのは、常識的に考えればまず不可能であり得ないことである。たとえば私が「チャーハンよ、現れよ」と言ったところで、チャーハンができるわけではない。もちろん中華屋で「チャーハン!」と言えば、チャーハンが登場するわけだが、それはお店の人が作ってくれたわけで、自分では何もしていないのだから、それでは作ったということにはならない。チャーハンを作るには、それなりの手間を掛けねばならない。それにしても納得のできるチャーハンを作るのは難しい。今まで何度か挑戦したが、納得のできる域にはまだ達してない……というのはどうでもよくて、ことばだけで天地創造をなされるとは、神はまさしく不思議な方法で物事をなされるお方であるというのは確かである。

それでは、神のひとり子であり、また御自身も神であるイエス・キリストはどうであろうか。彼もまた不思議なことをなされただろうか。もちろん、キリストも例外ではなかった。つい最近では、わずかな食料で数千にも及ぶ群衆の食欲を満たしたということもあった。振り返って考えてみると、あれも不思議なやり方で実現されたではないか。そして今回もまた同様に不思議なことをなさっている。聖書を見ると、このような出来事が記録されている。「人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った。そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に『エパタ。』すなわち、『開け。』と言われた。」(マルコの福音7章32〜34節)

癒やしを求めて人々がイエスのところに集まってくるというのは、もはや珍しいことではなくなっていた。またそのような人々をイエスが助けるのも珍しくはなかった。だが今回はその方法が文字通り不思議であった。いやそれどころか、不思議を通り越して、俗っぽい言い方になってしまうが、まったくもって意味不明であった。イエスは耳と口の不自由な人の耳に指を突っ込んで、つばを吐いて、舌に触れたというのである。どちらかと言えば、あまり衛生的ではない。それではなぜイエスはそのような方法をとられたのだろうか。だがその答えは私には分からないし、分かる人はいないだろう。なぜならそれは神のなさる不思議なわざのひとつなのだから、理解できなくとも仕方のないことであろう。もちろんイエスが、そのような行動を取る必要はなかったであろうし、今までそうしてきたように、彼が望めば人は病気や怪我から癒やされることはできたはずだ。だが今回に限って、イエスはいつもと違うことをなさっている。その意味と目的は私たちには分からなくとも、イエスには何らかの理由があったのだろう。

しかし私たちにも分かることはある。神が「光よ。あれ。」と言ったら、光が現れたように、イエスが「開け。」と言われたら男の耳と口が開いたではないか。つまりキリストが言ったことは、確かな現実になるということだ。