キリストのため息

ため息というのは、一般的にあまり好ましい印象を持っていない。ため息をつく本人にとっても愉快なものではないし、それを聞かされる周りの人たちにとっても心地よいものではない。それはため息という言葉が否定的な意味を持っているからなどというような、言葉で説明できるような理由からではないであろうし、またため息は不快なものであると教えられたからでもないだろう。それは頭で理解するようなものではなく、おそらく経験から気付いて、分かっていることなのかもしれない。誰しも楽しいからため息をつくという人はいないだろう。嫌なことがあった時、気にいらないことが起きた時、物事に納得がいかない時、ため息とはそのような時につくもの、いや、ついてしまうものである。とは言っても、全てが全てネガティブな状況とは言い切れないだろう。例えば、おいしいものをたらふく食べた後にも、深い息をつくことがあるが、あれは例外だろう。それともあれは、食べるだけ食べ尽くしたことへの後悔の現れなのだろうか。いや、さすがにそれは考えすぎか。

何はともあれ、ため息というのはなるべくなら避けたいものである。自分でつくのも気が滅入りそうですっきりしないし、人がつくのを聞いたらこちらの気分までが落ち込んでしまいそうになる。私としては可能な限り、人前でため息をつくことのないように心掛けているつもりである。果たしてそれが実現できているかどうかは、自分ではなかなか分からないものかもしれないが、少なくともそれが他人に対する礼儀というものであろうと考えているからだ。

神のひとり子であるキリストのように寛容な人物であれば、おそらくため息などついたことがあるまい、と考えてしまうのではないだろうか。なによりため息が周囲に及ぼす影響を思うと、なおのことキリストのようなお方がため息をつくなどとは考えられない。多くの奇跡を行い、様々な困難にある人々を助けてきたお方である。ため息をついて、集まる人々をがっかりさせるようなことをするとは思えない。しかし、改めて考えると、キリストといえども神ではあるが、同時に人間でもあった。そして人間であるからには、やはり不愉快に思うこともあったはずだ。

ところで聖書にはこのようなことが書かれている。「パリサイ人たちがやって来て、イエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めた。イエスをためそうとしたのである。イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。『なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。』」(マルコの福音8章11〜12節)

キリストはため息をつきたい気分になったことは確かなようだ。だが、さすがにそこは神の子である。あからさまにため息をついたわけではなく、心の中で嘆息したという。さて、さすがのキリストにもがっかりな思いをさせたのは、何であったのだろうか。それは、律法学者や宗教家たちがキリストに議論をふっかけて、天からのしるしを求めたことであった。彼らは気付いていないのかもしれないが、彼らは神に対して議論をしかけたということになるのだから、冷静に考えてみれば、実に恐れ多いことである。創られたものが、創り主に対して議論をするということになるではないか。創り主にしてみれば、そんな生意気な作品は、さっさと処分してしまいたくなることだろう。しかし腹立ちに任せて人を潰すようなことはされなかった。それを思えば思うほどに、神の忍耐強さと寛大さに、ただただ感謝するのみである。だが律法学者たちは感謝するどころか、キリストにしるしを求めるのだった。それにしても今まで多くの奇跡を目撃しておき、それを非難の材料にしておきながら、何を今になって目に見えるしるしを求めているのだろうか。

さてキリストはしるしを与えないと言っているが、果たしてそれは本心なのだろうか。どのようなことでも構わないから、求めるようにと、キリスト自身が教えていたではないか。(マタイの福音7章)おそらくキリストが言わんとしていることは、すでに現されているしるし、すなわち彼の行った数々の奇跡を見ておきながら、それを認めずに、ただ神を試すためにしるしを求めるのであれば、そのような目に見えるようなサインは与えられないということなのだろう。端から信じようという思いもなく、認めようという気持ちもなく、考えてみようという意志もないのであれば、どのようなしるしを求めようとも、それは与えられないということなのかもしれない。神が目に見える形で合図をしてくれるのであれば、神を信じる。そのように思う人がいるかもしれない。だが神はすでに十分なしるしを残しているのではないだろうか。 それを見てどうするかは、人の自由に任されているのだろう。