繰り返すこと、繰り返さないこと

気がついてみたら、今年も十二月になってしまった。年々時間の過ぎていくのが早く感じられるようになっていくのは、なぜだろうか……なんてことは、いくら考えたところで答えなんか見つからないだろう。それはそうとして、一年の終わりが近づくにつれて、果たして今年は何かをやり遂げたのだろうかと考えることがしばしばである。で、何か成したかと言えば、何もないのが現実だったりするのだ。日常の様々なことに追われているうちに、時間が過ぎてしまったようである。このままではいかんなぁと後悔と反省を重ねるのだが、たしか一年前も同じようなことを考えていたような。もしかしたら、さらにその一年前も。いやはや二度あることは三度あると言うかと思えば、歴史は繰り返すとも言う。けれども今から一年先のことを案じるのは、それはそれで意味がない。来年こそは何事かを、と思うのであるが、これも今まで通ってきた道であろう。

さて十二月と言えば年末であると同時に、クリスマスの季節でもある。慌ただしい日常に呑まれて、脇目も振らずに過ごしていたら、十一月の暮れの街はクリスマスの粧いを呈しているのを見て、そういえばクリスマスか、と気づいたくらいである。

ところで多くの人々は毎年のようにクリスマスを祝っているようである。いや、もっと厳密に言うのであれば、クリスマス“を”祝っているのではなく、クリスマス“に”祝っているだけなようにも思われる。もちろん人の心の内までは分からないので、私の推量でしかないが。どうにも不思議なことなのであるが、多くの日本人はクリスチャンでもないだろうし、ミッション系の学校に通っていたのでもなければ、イエス・キリストが誰であるかもよく知らないだろう。もっとも近年は映画「パッション」がきっかけになったのか、一般の雑誌や書籍でも(善し悪しは別として)キリストに関することや、聖書に関する話題などが取り上げられことも増えてきたようにも見受けられるし、最近では「聖☆おにいさん」の影響で、イエス・キリストという人物についても、以前よりも知名度が上がったのではないだろうか。

だがそうは言っても、やはり信仰を持っている人はまだまだ少ないだろう。だが信仰がなくとも、キリストが何者であるかも歴史の教科書レベルくらいしか知らなくとも、なぜかクリスマスになると多くの人たちが盛り上がっているようである。一方では、信仰者が建国の父であったはずのアメリカでは、公の場ではクリスマスという単語そのものが、特定の宗教を意味するという理由で使うことを禁じられているという現実もある。そんなことを考えると、その意味を知って真っ向から拒否しているよりは、意味をよく理解せずにはしゃいでいる方が、まだ救いようがあろうというものではないだろうか。多分に私の希望的観測が含まれていることは否めないだろうが。

毎年十二月がやってくることが当然のように、毎年のように大勢がクリスマスを?クリスマスに?まぁ、どっちでもいいけど、祝うわけである。意味が分かっていなくとも、商業色が濃かったとしても、人々の気持ちが高ぶることに違いはない。クリスチャン人口が一パーセントにも満たない国とは思えないような盛り上がり方である。毎年毎年クリスマスは繰り返されるのである。

さてクリスマスのおめでたい雰囲気は繰り返されるが、実際にクリスマスの本来の意義であるイエス・キリストの誕生は、たった一度だけのことであった。キリスト、つまり救い主の誕生に繰り返しはないということになる。彼の思いを受け継ぐような子孫が誕生しなかった、というのがその理由ではない。彼の働きを引き継げるような弟子がいなかった、というのも理由ではない。本当のところは、救い主はイエス・キリストだけで十分ということなのである。救い主というのは大勢いれば良いというものではない。神と人間の橋渡しをすることのできる存在であれば、それで事足りのである。そしてその役目を果たすことができるのは、神であるとともに、人でもあるイエス・キリストをおいて他には何者もいなかったのである。救い主がどのようなお方であるか、聖書にはこう書かれている。「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」(コロサイ人への手紙1章15、17、14節)