クリスマスはいつ、誰のため?

クリスマスと聞いて冬を連想してしまうのは私だけではないだろう。実際、クリスマスは冬にやってくるのだから、そうだとしても何ら不思議なことではない。それにサンタクロースは北極圏の出身だし、スノーマンにいたってはその名の示す通り雪で作られていることを考えると、やはりクリスマスと冬はイコールではないにしても、切り離して考えることができない深い関係にあるようだ。それもあってか、クリスマスと聞くと、私などはそれこそ有名な「ホワイトクリスマス」に代表されるような、雪がしんしんと降る情景を思い浮かべてしまう。とは言っても、私の記憶には、今までにそんな絵に描いたようなクリスマスに出くわしたことがないから、単なる私のあこがれでしかないのだが。だが現実的に考えてみると、もし雪が降ったとしたら、元々が雪国生まれでもなければ、雪国に住んだ経験が皆無の私にとっては、生活するのに非常に困ってしまうことだろう。

だが冷静になって考えると、クリスマスと冬は関連があるわけではない。というか、関係はまったくない。はからずも中学の時の英語の教科書に載っていた、常夏のビーチにいるサンタクロースの写真が思い出されてしまったが、南半球や赤道付近、たとえばオーストラリアやハワイでは、クリスマスは夏にやってくるのである。私にとっては想像することさえ難しいが、その土地に住んでいる人たちにとってはそれが普通なのだろう。

季節はともかくとして、私たちが日常使う太陽暦のカレンダーに従えば、クリスマスは12月25日と決まっているが、はたして本当にイエス・キリストはその日にお生まれになったのだろうか。よりによって師走の忙しい時期に……などと不謹慎ながら思ってしまうこともある。それもそのはず、仕事納めの直前にクリスマスがやってくるのだから、公私ともに忙しい時期が重なってしまい、率直に言えば12月は体力と気力で勝負に出るようなものだ。気楽な学生時代や身軽な独身時代と比べると、クリスマスの雰囲気に浸るだけの余裕がないのが現実である。せめてクリスマスが11月とかだったら多少は楽になるであろうにと思うのだが、私がぼやいたところでどうしようもない。

なんだか話が脇に逸れてしまったが、イエス・キリストの誕生日はいつだったのだろうか。正教会では1月にクリスマスを祝ったりすようであるが、12月25日というのが一般的なところだろう。だが正確な日付は分からないというのが本当らしい。今日祝われているクリスマスの日が決まった経緯には諸説あるようで、マリアの受胎告知が過ぎ越しの日の前後だったからとか、古代ヨーロッパの異教徒の祭りの日程に併せたからとかあるようだ。

そのようなことを考えると、クリスマスが本当にイエス・キリストの誕生日なのかどうか疑わしく思われるかもしれない。だが考えてみると、疑問が残るとしてもクリスマスの意味が薄れることはないだろう。なぜならキリストが生まれた日を覚えて祝うために、後になってからクリスマスが決められたのだから。順番から言えばイエス・キリストがまず先にあったということは誰が見ても明らかである。そもそもキリストが誕生していなければ、何月何日と論じる以前にクリスマスというものが存在しえないはずだ。

普通に私たちの感覚からすれば、誕生日というのはその日に生まれた人のためにあると言えよう。その人にプレゼントを贈ったり、お祝いの言葉や気持ちを伝えたりと、言うなればその人を持ち上げるために日である。だがキリストの誕生日はちょっと違うようだ。私の信仰が薄くて、あまり意識していないだけかもしれないが、クリスマスにイエス・キリストに「おめでとう」という話をあまり聞かない。それよりも人が互いに贈り物を交わしたり、家族や友人同士で過ごすという印象が強い。信仰がなくとも、そうやって過ごす人のいかに多いことか。信仰があれば、なおそれに加えてキリストの誕生を神に感謝もすることだろう。そう考えると、クリスマスとはキリストが主役であるとしても、それは人のためにあるとも言えよう。なんと言っても神のひとり子キリストの誕生こそが神が人類に贈った、最高のプレゼントであるからだ。

大切なことは、クリスマスが何月何日であるかということではなく、クリスマスが存在するということだ。キリストがこの世に来られたということを覚えてさえいれば、極端な話、いつがクリスマスでも構わないとも言えよう。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカの福音2章10〜11節)