クリスマスの楽しみ方

アメリカ贔屓と言われてしまうかもしれないが、クリスマスの時期になると、アメリカで過ごした学生時代の頃が懐かしくなり、どうしてもアメリカに行きたくなってしまうのである。こればかりはどうにも抑えることができない。私の中ではクリスマスといえばアメリカのクリスマスがイメージされるのである。ヨーロッパのクリスマスでもなければ、日本のクリスマスでもない。日本のクリスマスは商業色が濃いと言われているようだが、私の経験から言わせてもらえば、むしろアメリカの方が商売っ気丸出しのようである。なんと言っても、クリスマスの前にはどこでもクリスマスプレゼントを見込んだセールを開催するし、クリスマスが終わった後には交換や返品されたプレゼントがアウトレットに並ぶとも言われている。日本人の感覚では理解に難しいところかもしれないが、アメリカでは気に入らないものは返品や交換もできたりするのだ。俗的に考えると、商売する人たちにとっては一番の稼ぎ時らしいのだが、それも含めて私にとってのクリスマスの雰囲気といえば、やはりアメリカなのである。

今でも思い出せることがいくつでもあるが、そのひとつにたとえばこのようなものがある。ある年のクリスマスに、知人の家に夕食に招かれたのだが、食事の前に食卓を囲むひとりひとりが一年を振り返って、感謝だったことを話すのだ。もちろん招かれていた私にも順番が回ってきたのだが、何を話したのかまでは思い出せない。おそらく食事に招かれたことを感謝だと言ったかもしれない。いきなり感謝なことをひとつ挙げろと言われても、なかなか思いつかないものであるから。なぜそうするのかと、後で教えてもらったのだが、その理由はこうだそうだ。神がひとり子であるイエス・キリストを人に与えられたことに対する、感謝の気持ちを表すためのひとつのやり方であると。

ふと思うのだが、イエス・キリストほど誕生日を知られている人物は、古今東西どこを探してもいないのではないか。いわゆる世界三大宗教としてキリスト教、イスラム教、仏教とあるが、仏教の開祖であるゴータマ・シッダッタの誕生日が伝統的に4月8日であってもあまり知られていなかったり、イスラム教の創始者であるムハンマドの誕生日については、紀元570年頃に生まれたという以外にはっきりしなかったりという具合である。ところがイエス・キリストの誕生日だけは「クリスマス」として世界中で、信仰者の間では当然のこと、キリスト教に格別に造詣がない人でも一般知識として知っているのだ。

さて我が国であれば教会よりもお寺の数の方が多そうなものであるし(もちろん実際に数えたわけでもないし、調べたわけでもないから、私の憶測でしかない)、それにキリスト教よりも仏教の方が広く認められているようでもある。ところがそんな日本においてさえ、花祭りだからと言って街の中が盛り上がりを見せることがないわりに、なぜかクリスマスになると巷は大賑わいになるのである。冷静になって考えてみると、妙な現象でもある。きっかけは西洋的な事物への憧れかもしれないし、裏には商業的な目的があるのかもしれないけど、そうだとしてもクリスマスは一般に広く受け入れられているというのが現実なのである。宗教に寛容なのか、それとも無関心なだけなのか、見当もつかないが、イエスもブッダも八百万の神々も十把一絡げに扱ってしまうのが日本人というものなのだろう。もっともキリスト者となってからは、そうするわけにもいかないが。

さて、話があらぬ方向へ行ってしまいそうであるが、クリスマスというと「イエス・キリストの誕生」という遠い昔の出来事であるだけに、歴史上の事柄として見られてしまいそうなものである。もちろん、それはそれであながち間違いとは言えないが、それだとクリスマスを存分に楽しんでいるとは言えないだろう。確かにクリスマスはキリストが赤ん坊としてこの地上に生まれたことを覚える日である。しかしそれだけだとしたら、また来年の誕生日を待つだけになるだろう。

覚えておきたいことは、神であるはずのイエス・キリストご自身が人として生きて、人が経験する喜びや悲しみを身をもって感じ、そして人の罪の身代わりとなるためでもあった。つまりイエスは人と神を結びつけるために、この世界に来られたのである。神は高いところから人を見守っているだけの存在ではない。キリストを通して、神は人が感じるように感じられるのである。私たちはどのような時でも、それこそ時が良くても悪くても、神は私たちの思いを知っておられるのだ。それだけ神は身近な存在なのである。神がそばにいて下さることに気付けば、クリスマスに感じる喜ばしい気持ちを、次のクリスマスまでの一年間持ち続けることも不可能ではないだろう。