イエスはキリスト

クリスマスが無事終わった、というのもヘンな言い方かもしれないが、嵐が過ぎ去ってひと安心、というのが正直な感想である。はやくも街の中はクリスマスの飾りが片付けられてしまい、つい先週まではケーキやらチキンやらを売っていた店先では、年越しそばやらおせちやらを売り出すようになった。つくづく思うに、切り替えの早いものである。個人的には、もう少しクリスマスの余韻に浸ることができれば、と思うのであるが、現実的に考えるのであれば、クリスマスと新年の間にわずかな日数しかないのだから、無理のないことだと自分を納得させるしかない。

しかし、たとえ一晩にしてクリスマスの雰囲気が街から消えてしまったとしても、その意味であるイエス・キリストの誕生に変わりはない。当たり前のことであるが、例えば私の誕生日が過ぎたからと言って、私という人間がいなくなるわけではない。ただ人が私のことを特別に覚えてくれるというだけで、誕生日には私が特別いつもと違う何者かになるというわけでもない。だから誕生日の前でも、誕生日の当日でも、誕生日の後でも、私という人間に違いはないのである。もちろん、年齢をひとつ加えたという違いはあるだろうが、それ以上でもそれ以下でもない。

私のような業の深い人間とキリストを比較するのも、実に申し訳ないことのように思えるのだが、クリスマスだからといってイエスが特別な何者かになるというわけではない。私がそうであるように、クリスマスの日でも、クリスマスが終わって正月まであと残りわずかという今日でも、イエスがキリストであることに違いはないのである。

さて、そうは言っても、イエスが地上に住んでいた頃に、彼が何者であるかを知っていた者はどれほどいただろうか。彼は弟子たちに自分が何もであるかを聞いたことがあった。それについて、彼と弟子たちのやりとりが聖書に残されている。「イエスは弟子たちに尋ねて言われた。『人々はわたしをだれだと言っていますか。』彼らは答えて言った。『バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。』するとイエスは、彼らに尋ねられた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロが答えてイエスに言った。『あなたは、キリストです。』」(マルコの福音8章27〜29節)

改めてこの箇所を読んでいて、ふと考えたのだが、なぜイエスは群衆から誰だと思われているかと、弟子たちに誰だと思われているかと、ふたつの聞き方をしたのだろうか。イエスの噂を聞いて彼のところへ集まってきた群衆と、常に彼の身近にいて常に彼の行いと教えに接してきた弟子たちとで、彼が何者であるかに対する考え方に違いがあるかを見極めたかったのだろうか。それともただ彼がどの程度理解されているかを知りたかっただけなのだろうか。本当のことは誰にも分からない。だが結論から言えば、群衆と弟子とでは、やはり見方が違ったようでもある。

群衆から見たイエスは、過去に実在した誰か―例えばバプテスマのヨハネであったり、預言者のエリヤであったり―と結びつけてイエスという人物を見ていたようである。つまりイエスは偉大な人物であるが、過去に存在した偉人と並ぶ者としてしか見られていなかったということになる。確かに奇跡を行ったり、神のことばを伝えたりと、彼の行いは人々が知っていた過去の預言者たちの姿と重なったことだろう。そう考えると、群衆の見方は必ずしも間違っていたわけではないだろう。ところが弟子のペテロによるとイエスはただの預言者ではなかったようだ。ペテロはイエスのことを「キリスト」と言っている。キリストというのは、いわば称号や敬称のようなもので、その人の立場を表すものである。つまりキリストというのはイエスがどのようなお方であるかを示すものであるのだが、ペテロが言っているキリストとは、どのような立場を意味しているのだろうか。

キリストとは油注がれた者という意味である。油を注がれるとは、神によって、神の目的のために選ばれるということであり、歴史的にユダヤの民で油を注がれる者とは、預言者、祭司、王であった。はたしてペテロがいずれを考えていたのかは分からない。だがイエスの行ったこと、語ったことを振り返ってみると、そのすべてと言えるのではないだろうか。

すなわちイエスは、人々に神のことばを伝える預言者であり、神と人々の間を取り持つ祭司であり、この世のすべてを治める王なのである。それがイエスがキリストということである。