神のやりかた

東名上り、浜松付近だったか。制限速度百キロをやや下回る程度で走行車線を走っていたら、前方にさらにゆっくりと走行している車列を発見したので、追い越し車線を走行中の車両も見当たらなかったし、ここぞとばかりに加速して追い越しに入った。適当なところで走行車線に戻ろうとしたのだが、タイミングが悪く入り込む場所がない。無理に入っては危ないし、後続車両の速度低下を招いて渋滞の原因を作ることにもなりかねない。ということで、そのまま追い越し車線を走行して、走行車線の車列の先頭に入ろうと目論み、やや速度を上げて、前方に誰もいない追い越し車線を走る。ふとバックミラーを見たら、パトライトを点灯させた警察車両。緊急車両に道を譲らないければと考え、走行車線に戻ったら、くだんのパトカーがなぜか私の前に割り込んできたのである。まさかと思ったわけだが、次の「横浜ヨンナナゼロキュウの運転手さん」で疑問の余地もない。パトカーに先導されるという滅多にない機会だったが、行き先は最寄りのPA。ゴールド免許もこれまでだ。

まぁ、違反をしたのは事実であるから、弁解の余地はない。素直に反則金を払って、後は安全運転を心掛けるしかない。それにしても、どうしても思ってしまうのが「なんで選りに選ってオレが?」という疑問である。明らかに私より速度を出して、それこそ一発で免停になってもおかしくないような車両がいるにも関わらず、なぜか私が捕まったわけである。検挙された私が言うのものおこがましいが、不公平なものである。「自分も悪いが、彼奴はもっと悪いじゃないか」というのは罪を犯した者の口癖であろうか。

ところで多くの人々が抱くのが、この世の中の不公平に対する疑問であろう。神様が本当に情け深いのであれば、なぜ世の中には苦しみがあるのか、なぜ神様が正義であるのなら、なぜ正しい人の努力が報われないのか、等々。それに対するクリスチャン的な答えとしては、この世に正しい人はひとりもいないとか、この世界に罪が入ってきたからとか、等々。確かにそれも間違いではない。では、罪のない人は苦しむことがないのだろうか、正しい人はその働きが報われるのであろうか。

ところでキリストは弟子たちにこう言っている。「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。しかも、はっきりとこの事がらを話された。」(マルコの福音8章31〜32節)

人の子とは、すなわちイエス・キリストのことである。キリストというのは前にも見た通り、油注がれた者を意味しており、その職務としては王、祭司、もしくは預言者である。私が思うに、イエスはそのすべてであろう。おそらく弟子のペテロもそう考えていたかもしれない。つまりこの地上に正しい者が存在するとしたら、それはイエスをおいて他には何者もいないであろう。ところがそのようなイエスが、いきなり自分は多くの苦労をして、最後は殺されてしまうなどと言い出したのである。それもたとえを用いて曖昧に話したわけではなく、はっきりと話したという。これにはペテロも心穏やかではなかったようだ。それこそ、イエスが苦難にあうような不公平なことはあるべきではないと考えたのかもしれない。聖書にはそのときのことがこう書かれている。「ペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。」(同32節)私の想像でしかないが、このようなことを言ったのかもしれない。「先生のことは私たちがお守りします、ですからみんなが不安になるようなことをおっしゃらないで下さい。」

だがイエスはペテロの意見に耳を貸すどころか、反対に彼を叱りつけた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(同33節)

おそらくペテロにしてみれば悪意があって、イエスを思いとどまらせたわけではないだろう。だがペテロの考えとイエスの考えは相容れないものだった。なぜならイエスの味わうことになる苦しみは、神の目的を達成するためには必要なものだったからだ。それを思いとどまらせようとすることは、たとえ善意からであったとしても、結果としては神の働きの妨げとなることであり、それをイエスは受け入れられなかったのだ。

確かに世の中には不公平と思われることがあるし、それはこの世界に罪が入ったからというのも間違いではない。だがそれがすべてではない。どのような苦労や困難も、それは単に私たちに課せられた罰だけではないはずだ。それは神が目的を達成するための手段かもしれない。神のやりかたは一様ではないということだ。