ついて行くには

今更こんなことを言うのもおかしいかもしれないが、聖書というのは難しい。ざっと読んだくらいでは、さほど難しいことを書いていないと思えるような箇所があったとして、それは並んでいる単語のひとつひとつの意味が単純なだけであって、それが連なってひとつの節、ひとつの章になってくると難しくなるのではないだろうか。ただなんとなく読んでいるだけだと、そのような文章さえも、さほど難しいことを言っていないように思われてくる。そして別の機会に、同じ箇所を読んでみると、理解できなかったりするのだ。さて、私が難しく考えすぎてしまうから難しくなるのか、それとも私が適当に読んでいたから簡単に思えてしまったのか、おそらく後者であろうと思う。まぁ、どれだけ私が聖書を読むのに集中していないことがあるのか、ばれてしまいそうである。

それはそうと、イエスはたとえを用いて弟子たちや、集まってきた人々に教えることが多かった。やはりその内容には難しいところがあっただろう。イエスの語ったことすべてが聖書に記録されているわけでもないだろうから、果たして実際に彼が何をどのように語ったのかは分からないが、もしかしたら、礼拝中にうとうとしてしまう私のような、注意力散漫な者でも理解できるように話されたこともあったかもしれない。うーむ、是非ともイエスが語るのを聞いてみたいと思うのであるが、残念ながらイエスはすでに地上にはいないので、それは無理なことだろう。

さて、前回、弟子のペテロがイエスに怒られたところを読んだが、その後のことが聖書にはこう記録されている。「それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』」(マルコの福音8章34節)

なるほど、ざっと一読の限りでは、それほど難しいことを言っているようには聞こえない。イエスに従おうと願うのならば、三つのことをするだけである。まず、自分を捨てる。それから、自分の十字架を背負う。そして、イエスについて行く。それだけのことである。単純明快、悩むべきところはない。と、言いたいが、どうにも分からないことがある。ひとつは、自分を捨てる。もうひとつは、十字架を背負う。これは一体どういうことなのか。わかりやすく言い換えると、どうなるのだろうか。

自分を捨てる、自暴自棄の「自棄」に似ているといえば似ているが、自棄というと、どうもやけっぱちになるとか、投げやりになるとか、マイナスの印象を拭えないが、それとは違うようである。具体的にどこがどう違うのかと言われても困るが、神の子イエスに従うために、否定的な態度を取ったりするのは、どうも彼が求めていることとは相容れないような気がするのだ。では、肯定的な意味で自分を捨てるとは、どういうことなのだろうか。捨てるという言葉にしても行為にしても、どちらかといえば建設的なものではないようだ。だがそれを、前向きに捉えるとすればどうなるのか。自分のひとりよがりな考えやプライドを捨てるということか。それともキリストよりも大事と思える物事をあきらめるということか。いくら考えたところで、正解は分からないだろう。自分の持っている何かを捨てるというのであればまだ分かるが、自分を捨てると言うのだから、やはり分からない。

それでは、十字架を負うとは何であろうか。今でこそ、十字架といえばキリスト教のシンボルであるが、当時の十字架とは死刑執行の道具である。であるから、キリスト教のシンボルとしての十字架を身につけろということではないのは確かである。より具体的に、今の時代に置き換えて考えるのであれば、絞首台を負うということになるだろう。そんなもの背負うことができるわけがない、と考えるのが普通だ。文字通りに考えると、どうも無理がある。では比喩的なものとして、自らの罪の責任を負って罰を受けるということであろうか。しかしそれはそれで、イエスが与えて下さった罪の赦しを否定することになるのではないか。それはそれで、どうも違うような気がする。となると、やはり意味が分からない。

残念ながら、聖書を読んでも、改めて何度も考えても、分からないものは分からないのである。もしかしたら、イエスが目の前で話しているのを見たら、言葉以上の何か、例えば身振りや手振り、視線や情熱などもあって、人々は理解することができたかもしれない。だが、それも今の私にはかなわないことである。

イエスについて行くためにはどうするのか。正直、私には正解が分からない。だが分からないから、イエスに従うのをあきらめるのではなく、分からないからこそ、イエスを求めるのだろう。求めれば、いつか答えは与えられると信じて。