いのちを得る

さて、前回はイエス・キリストがおっしゃられたことを読んでみたわけだが、せっかくなのでその続きを見ていこうと思う。それにしても、イエスが生きていた頃、人々はどのような思いで、彼の教えるのを聞いていたのだろうか。熱心に聞き入っている人たちもいたことだろう。半信半疑で聞いている人たちもいただろう。端から否定するつもりで聞いていた人たちもいたに違いない。人々の態度や動機がどのようなものであったとしても、彼らは直接イエスの話すのを聞けたのである。イエスが地上にいない今の世界に生きる私にしては、それだけでも十分な祝福のようにも思われるし、どこかうらやましくも思われる。とは言っても、いざ自分がイエスの時代に生きていたとしたら、私がひねくれた何かと人に逆らいたくなる性格であることを考えると、もしかしたら期待半分、反発半分で話を聞いていたかもしれない。

そのような性格の私にとっては、聖書を通してイエスの話を聞く方が、落ち着いて何度でも読み返すことができるので、直接聞くよりは受け入れやすいのかもしれない。もっとも人のよって、受け取り方は様々であろうから、聖書に書かれていることを読むよりは、直接イエスから話を聞きたかったという人もいるだろう。いずれにせよ人は生まれる時代と場所を選べないのでどうしようもない。だが幸いなことは、イエスのことばを知りたければ、聖書を開けばすぐに見つけることができるのだ。

さて、前回のイエスのことばの続きを見よう。聖書には、彼の発言がこのように記録されている。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」(マルコの福音8章35〜38節)

いのちを失う人はいのちを救うとか書いてあるのを読むと、なにやら分かったような、分かんないような気分である。それにしてもいのちを失うとは、穏やかならぬことをおっしゃるものだ。しかし、改めて読み直してみると、どのような目的、もしくは理由のためにいのちを失うことになるのか書かれており、それは、キリストと福音のためだという。いや、死んでキリストを証しするとか、死ぬことで神の国の知らせを伝えるとか、そのような極端なことを言っているわけではない。死人に口なし、とはちょっとニュアンスが違うけれども、人は生きてこそ伝えることができようし、口があってこそ話すことができるものであろう。そう考えると、そのくらいの覚悟で伝えなさいと、読むこともできるだろうし、もしくは結果としてそうなったとしても、それを損と考える必要はないということでもあろう。なぜなら、そうすることで結果として、人は神からいのちを受けることになるからであり、神が人に与えられるいのちとは、滅びることのない永遠のものなのである。

もし人が自らの力で自らのいのちを救おうとしても、それには限度というものがあろう。もちろん、そうすることが完全に無駄というわけではないだろうが、人がどれほど健康に気を配ろうとも、あらゆる災難から身を避けようとしようとも、人のいのちに限りがあることに違いはない。ありとあらゆる不幸や不運から逃れることはできようとも、命数が尽きる日から逃れることはどうあがいても無理なのだ。

人はどのような手段をもってしても、自らの力では永遠のいのちを得ることはできないのである。それはただ神のみが人に与えることができるのだ。そもそも有限な人に無限のものを作り出すことは不可能であろう。ましてや滅びることのないいのちなど、人がどれほど頑張っても無理である。永遠という尺度を超えている神のみが、与えることができるのだ。しかしその一方で、キリストとその福音を恥とする、つまり自分自身の名誉や誇りを損なうものと見るのであれば、永遠のいのちを得るどころか、神はその人を恥とするのである。すなわち、永遠のいのちを受けるに相応しくない者とされてしまうのである。

キリストのことばに接するとき、納得できなくても構わないだろう、理解できなくても構わないだろう、好きになれなくても構わないだろう、もしかしたら時間が経てばうなずくこともできるかもしれないし、分かるようになるかもしれないし、また素直に受け入れられるかもしれない。自然と解決する日が訪れるかもしれない。しかしそれを恥とし、自らにとって不利なものと見なすのならば、それは永遠のいのちを逃すことになり、人にとって最大の不幸なのかもしれない。