一番えらい

「えらい」と聞くと、まず思い浮かぶのは「立派なこと」とか「秀でていること」とか、そう言った意味あいで使う単語である。少なくとも、私はそのように考えてきた。ところが、三重県は四日市出身であるウチの家内は、結婚した頃、「えらい、えらい」と口にすることがたびたびであった。一体全体何がそんなに立派なのかと思ったら、どうやら彼女の言う「えらい」とは「大変なこと」ということだったらしい。まったく紛らわしい……と思うのであるが、彼女にすれば「えらい」と言うのが普通だったのだろうから、どうしようもない。さすがに彼女も横浜では「えらい」と言うこともなくなってきたが。まぁ、あれだ、落ち着いて考えてみれば「えらいこっちゃ」という言葉もあるくらいだから「えらい」が必ずしも「偉い」を意味するわけでもないのは日本語としてあり得るのだろう。

それはさておき、人は「偉い」ということについて、敏感なようである。偉くなりたいと思う人は多いかもしれない。偉いということが、権力を持つことなのか、知名度を得ることなのか、それとも他の何かなのか、その具体的な内容については、人それぞれ考え方があるだろう。ともあれ共通しているのは、頂点に立つということである。もっとも誰もがそう思うわけでもないだろう。私なんかは自分がどの程度の人間であるかが分かっているので、偉くなろうなどと無謀なことはつゆほども考えていない。とは言っても、何も私が謙虚なわけではない。偉くなったらなったで、それに伴う責任が面倒に思われるだけだし、なにより人の前に立つのがイヤなだけなのである。早い話が、ずるくて、小心なだけである。まぁ、そんな私だから望んだところで偉くもなれないだろう。うん、私にしては珍しく理にかなった考え方だ。

そのような気が小さい私が考えるのは「では一体、偉いのは誰か」ということである。いや、偉い人に媚びて得をしようとか、いくら私でもそんなけちくさいことはしない。何というか、異質な存在への、隠せない興味というものであろうか。それに加えて、少なからずも羨望の思いもないとは言い切れない。

生まれ育った背景や時代は違えど、置かれている立場や周囲の環境も違えど、イエス・キリストの弟子たちも同じような疑問や興味を持っていたらしい。「カペナウムに着いた。イエスは、家にはいった後、弟子たちに質問された。『道で何を論じ合っていたのですか。』彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。」(マルコの福音9章33〜34節)

弟子たちの中で誰が一番偉いのか、それとも当時の政治家や律法学者のうちで誰が一番偉いのか、はたまた旧約聖書の預言者の間で一番偉いのは誰なのか、何を考えていたのかは分からない。もしかしたらただ漠然と誰が一番偉いのか、ということを話し合っていただけかもしれない。それにしても、神の子であり、神でもあるイエス・キリストと一緒に道を歩いていながら、誰が一番偉いかと論じるとは、その場面を想像してみるとちょっと面白い。さて、さすがに彼らも自分たちの議論の内容がイエスに知られてしまっては、具合が悪かったようだ。何を論じているのかと聞かれたら、何も答えることができなかった。もちろんイエスは彼らの話の内容は承知していたに違いない。黙っている彼らにイエスは言った。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」(同35節)

イエス流「偉くなる秘訣」である。実に簡潔だ。偉くなりたいのであれば、人に奉仕する者になるだけ……えぇ?矛盾しているように思えるのは私だけだろうか。普通に考えれば、偉い人は仕えられる側に立っているのではないか。「それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。『だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。』」(同36〜37節)

人に仕えるとは、世界の頂点とは正反対にいるような小さな存在を、イエスの名によって迎えることであり、ひいては神を迎え入れることでもある。人の先に立つこと、つまり偉くなるということは、天と地と、そこにあるすべてを統べる神と共にいることなのかもしれない。偉くなるということは、けっして自分自身のためになるものではない。それは神のためであり、人のためでもあるのだ。