赦しの格好

もしも、である。もしも天国と地獄があったとしよう。いや、信仰のある人々にとっては、天国と地獄は仮の話ではなくて、現実の話であろう。そうは言っても、信仰を持っている人は、世の中、特に今の日本では、それほどいないというのが現実であろう。天国と地獄があると信じている人は、果たしてどれくらいいるであろうか。私も信仰を持つ前は、そのようなものが存在するなど信じてはいなかった。人間の叡智を超えた何者かが存在するであろうことは、それを神と呼ぶかどうかは別として、何となく考えたりしたことはあったが、死んだらどうなるかについては、存在が消えてしまうだろうくらいにしか考えていなかった。死後の世界も、生まれ変わりも、あり得ない話でしかなかった。

さて、天国と地獄があると私が言ったとしても、聖書に書いてあると言っても、信じてくれる人は少ないかもしれないが、ここでは天国と地獄があるという前提で考えてみよう。人は死んだら、どちらかに行かねばならない。どちらに行くか、最後の最後まで分からないということはない。どちらに行くかは、人に選ぶことができるのだ。とは言っても、天国行きの乗車券や、地獄行きの特急券があるわけでもない。さすがにそれほどダイレクトなものではない。では、日頃の行いによって決まってくるのであろうか。まぁ、それが世間一般での考え方かもしれない。だが、普段の行いなんていうものは、大半の人が似たり寄ったりであろう。この世に善人は一人もいないというのは、聖書の教えるところであり、人は生まれながらにして罪人であるということもまた然り。もしこの世の人間を分類分けするのであれば、「極悪人」「悪人」「小悪人」と言うことになるのだ。何をしたかで考えたら、もれなく全員地獄行きである。

では、天国に行くにはどうすれば良いか。手短に言えば、キリストを救い主として受け入れることである。それが確かな手段である。なぜどうしてを長々と説明するつもりはない。今、見ようとしているのは、どのような格好で天国に行くか、ということである。イエスはこう言っている。「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。……もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。……もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」(マルコの福音9章43、45、47節)

ちなみにゲヘナがどのようなところであるかというと、聖書にはこう書かれている。「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」(同48節)好き好んで向かうような場所ではないのは確かだ。

それにしてもイエスは、ずいぶんと恐ろしいことを仰るものである。私たちの体の一部が、私たちの罪の原因となるのであれば、それを捨てなさいと言っている。手や足がない方がいい、ではなくて、手や足を切り捨てなさいである。目がない方がいい、ではなくて、目をえぐり出しなさい、である。想像するだけでも「イタタタ……」となってしまう。それこそ、イエスのことばを文字通りに実行するとしたら、私の体などは跡形もなくなくなってしまいそうである。であれば、果たして私はどのような格好で天国に行けばよいというのだろうか、というかそれ以前に体がなくなってしまっては、天国に行くことなどできないだろう。では私の魂だけが行けば良いではないか、と都合良く考えることもできるかもしれないが、改めて振り返って見ると、私の心が私の体の中で一番罪深い場所ではないかと思う。そこから生まれ出る欲深い思いや身勝手な考えが、私の体を動かすのだから。

そう、つまり私は今の格好のままでは、天国に入ることはできないのである。罪を削っていけば、私という存在はなくなるし、私という存在を残せば、それと一緒に罪も残ってしまうというのが現実なのだ。

ところでキリストを受け入れることで、人の罪が消えるかどうかと言えば、ひとたび犯した罪は消えないのである。その代わり、人の罪はキリストによって赦されており、キリストの赦しが私たちの罪を覆っているので、私たちはそのままで構わないのである。神の国に入るには、キリストの義の衣をまとうだけの簡単な格好で十分なのである。神はそれ以上を求めないだろう。