子供は

子供は天使のような存在だ。子供は、無垢な心の持ち主であり、純真な気持ちの持ち主でもある。子供は素直で、従順である。子供は、罪を知らなければ、汚れも知らない。そして聖書には、このようなことが書かれている。「さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。』」(マルコの福音10章13~15節)

つまりイエスが言っていることは、こうであろう。子供のように神の国を受け入れなさいと。イエスのこのことばを、模範的なクリスチャンが、教科書的に解釈するとすれば、私たちは子供のようにきれいな心を持って、キリストに対して素直になって神の国を求めなさいということになるだろう。

だが、ちょっと待って欲しい。子供は純真無垢だなんて言ったのは、一体どこの誰だ?ひねくれた物の見方かもしれないが、私が思うに、きっと自分の子供を持ったことはない人の考えなのではないか。二児の父親である私から見れば、子供というものは、他人を顧みず自らの思いだけを通そうとし、自らの願いを達成するためであれば手段を選ばない存在である。それこそ、つぶらな瞳の奥にはわがままな欲望が渦巻いており、どこをどうやって見たら、子供が天使のようで、純粋で、罪のない存在に見えるのか、まったく不思議でならない。愛おしいと思うこともあれば、小憎らしいと思うこともあるのが現実である。人は生まれながらにして罪人というが、子供を見ていれば納得もできよう。

それにしても大人と子供違いとは、どこにあるのだろうか。もし私が、山手のマンションに住み、ベンツGクラスに乗って、財布の中には諭吉を十枚常に絶やすことなく入れておくという、そんな生活をしてみたいと言えば、ただの強欲と思われてしまうだろう。もし私が、仕事なんかしたくないと言えば、ただの怠け者にされてしまうだろう。そんなことばかり言っていたら、誰が見ても自分勝手でわがままで、どうしようもない人間に思われてしまうに違いない。ところが、もし子供がドーナッツが食べたいと言えば、では今度買い物に行ったときに買おうか、ということになるだろう。もし子供が水族館に行きたいと言えば、じゃあ暖かくなったら休みの日に行こうか、ということになるだろう。子供がささいな事を求めたとしても、それを欲張りだと思う親はいないだろう。また、勉強したくないと言えば、困ったもんだと思うことは思うが、そんな日もあるだろうと、明日からちゃんとやるのであれば、今日は遊んでも構わないと答えるだろう。なんて怠惰な人間なんだ、と責めるようなこともない。

子供は確かに自分勝手で、わがままで、欲が深く、人の物が良く見えてしまうものであるが、彼らの求めるものは大きなものではない。大きなものではないがゆえに、大目に見ることもできるのかもしれない。だが、大人も子供も根本的には、何ら違いはないのではないか。むしろ大人の方が、世間からの視線や、相手に対する配慮や、モラルなどを考えているので、直接的な行動に訴えることは少ないだろう。そう考えると、子供より罪は深くないと言えるかもしれない。とはいえ、大人の欲は規模が大きなだけに、一歩間違うと新聞に載ってしまうような結果を招くこともある。大人は欲があっても、それに支配されないように注意深く生きているだけである。

それでは、大人も子供もけっして純真無垢な存在ではなく、それどころか罪人であるという前提で、先ほどのイエスのことばの意味を改めて考えてみよう。

子供には世間体という考えもなければ、遠慮をするということもない。欲しい物があれば、あれこれ考えることなく欲しいと言い、自分の力でそれを手に入れることができないのであれば、それを与えることの出来る者にそれを願う。大人であれば、それはスマートなことではないと理性が働き、遠慮をしたり我慢したりするが、子供はその点においては素直というか無頓着なものである。

神を前にして、大人も子供も関係ない。神に対して遠慮をする必要はないし、我慢をする必要もないのだ。罪の赦しが欲しければ、ただ求めればよい。神の国に入りたければ、ただ願えばよい。すべての良いものを与えることのできる神の前で、何をためらおうか。