針の穴より小さい

いつもながらに私の独断でしかないが、世間一般における宗教の存在意義とは、人々を救済することにあるのではないかと思うのだ。おそらく世の中の目は、キリスト教も数ある宗教の中のひとつとしか見ていないだろう。信仰を持つ者の立場としては、キリスト教とは単なる教義や体系ではなく、生ける神との関係であると言えようが、そのような考えが普通に受け入れられるとも思えない。もっともそれが信仰というものなのだから、どうしようもないのだろう。

ともあれその線で考えると、宗教とはキリスト教も含めて救済を必要とする者のためにあるようなものだろう。では救いが必要な者とは誰なのかという議論になるが、様々な意見があるかもしれない。キリスト者に言わせれば、それは霊の救いということになるだろう。また世俗的な考え方をすれば、貧困や病気などからの救済ということになるだろう。それはそれであながち間違いでもあるまい。実際、キリスト教の団体の多くが人道的な働きを行うものであり、その対象は困難な境遇にある人たちであろう。もちろん、それは信仰者の善意の表れであり、信心に基づいた行いであることに疑いはないだろうし、またそうすることで神の愛を伝えようという思いもあるだろう。それらの行為が、やがては霊魂の救いにつながるという期待もあるだろう。

しかし魂の救済ということを考えてみると、その対象には、富んでいる人々、健康な人々、世で言うところの恵まれている人々も含まれいるはずだ。なぜならすべての人はやがては死にゆく存在だからだ。ところが、いわゆる恵まれた人々を相手にしたキリスト教の団体というのをあまり聞いたことがない。もしかしたら、私が知らないだけなのかもしれないが。需要がないところには供給もないと考えると、何ら不自由に感じることがないとしたら、あえて何か救いを求めるということもないということだろうか。だが、豊かな生活を送る人の中にも、何かが足りないことを感じて、その何かを求める人がいるというのも事実である。聖書の中にもそのような事例が記録されている。ある時、一人の男性がイエスのところに走り寄ってきて、こう尋ねたそうだ。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」(マルコの福音10章17節)

走り寄ってきたというくらいだから、おそらくこの機会を逃しては、次にイエスに会えるのはいつのことだか分からないという思いもあって、必死だったのかもしれない。それにイエスのことを尊い先生と呼んでいる様子を見ると、イエスが何者であるかを、何とはなしに気付いていたのかもしれない。確かに、この男性が永遠のいのちを求めてイエスのところにやってきたのは正解であった。

その男性にイエスは答えて言った。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」(同18~19節)

「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」(同20節)

イエスはこの男性に慈しみを覚えた。おそらく彼の言っていることにも、彼の思いや気持ちにも、何の偽りもないことを知っていたのだろう。そこでイエスは彼に永遠のいのちを得る方法について教えた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(同21節)

たとえを用いて話すことの多いイエスであったが、今回は実にわかりやすい、具体的なアドバイスであった。もしかしたら、男性が悩まないで済むようにと気を配ったのかもしれない。だが「彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたから……。」(同22節)男性の願いは純粋であった。男性の生き方も正しかった。しかし彼は神の国を求める以上に、自らの財産に愛着を持っていたのだ。最後の最後に、彼は永遠のいのちよりも、この世の富を選んだのである。イエスは弟子たちに言った。「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(同25節)針の穴より小さいらくだなどはこの世に存在しない。つまり金持ちが神の国に入るということは、あり得ないことよりも難しいこと、不可能だという。しかしイエスはこうも言っている。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」(同27節)

神の国に入るためには、ただ神に頼ればよいのである。人がどれだけ金を積んでも、神の国に入ることはできないのだ。もしかしたら、イエスはこの男性に、人が頼るべきは富ではなく神であるということを教えたかったのかもしれない。