イエスの言われたとおり

四月と言えば、新しい年度の始まりである。ちょうど色彩の欠けた季節から、華やかな季節へ移り変わるときでもあり、何とはなしに、気持ちも前向きになってくる。四月に年度の区切りがあるのは、明治時代以降のことらしいが、果たして誰が最初に決めたのか、ちょっと気になるところである。いずれにしても、良い季節を選んでくれたものだ。色々なところで、入学式があったり、入社式があったりと、世の中の様々なものが一新される。駅や電車で、まだ学生のような青年たちがスーツを着ている姿を見ると、スーツはおっさんのもの、という先入観があるからなのか、どうも違和感を感じてしまう。人も自然も、世の中の様々なものが変わる季節だ。

ところで、おっさんである私にとって、新年度とは、前年度よりも増額された売上予算が告げられる日でもある。もちろん事前に、どのような予算になるのかは知らされてはいるのだが、いざ経営計画にはっきりと書かれてしまうと、知らなかった、気にしてなかったとは言えない。形のあるモノを売っているのならまだしも、サービス業の私にしてみれば、半ば開き直って、成り行きに任せるしかないのである。仕事が増えるも減るも、お客様次第である。残念ながら顧客がその気にならなければ、私の予算も達成できない。新人でもないのに「どうしたらいいでしょう」なんて上司に聞くこともできない。いや、それよりも、聞くべき上司がいないというのが現実である。経営計画を読むたびに思うのだが、具体的にどうすべきか書いてあれば、どんなにありがたいことかと。しかし、マニュアルではないのだから、それが無理なことも十分に承知している。

さて、考えてもみれば、信仰も同じようなものではないか。キリストを救い主として信じることが基本にあるが、どのように信仰を生きるかについては明文化されていない。もちろん聖書があることにはあるが、具体的であるかといえば、それほどでもない。キリストはこんなことをされた、こんなことをおっしゃった、そのようなことは書かれているが、それはキリストについての話であって、私たちへの具体的な指示ではない。使徒や伝道者たちが多くの書簡を残しているが、それは当時の人々が同じ時代の人々に向けて書いたものであって、必ずしも二十一世紀を生きる私たちに宛てたものではない。確かに、良いアドバイスだろうし、読めば励ましにもなるだろうし、指針にもなるだろうが、私たちが日々生活するうえでどれほど役に立つかと言えば、なかなか応用するのは難しいのではないだろうか。聖書とは、言うなれば神の信仰計画書であろう。それは基本にあるものと、要所における重要事項、そして将来到達するべきことは書かれているが、その途中については細かく書かれていない。

信仰というのは自発的なものであり、その信仰に基づく行動もまた自主的なもである。人に言われてどうするものではない。つまり私たちの自由裁量に任されているのだ。どのように生きるもその人の自由である。但し、期末に査定があるように、最期には神の前で自らの行いについて申し開きをすることになるであろう。もちろん罪は赦されているから、門前払いを食うことはないにしても、あまり気分の良いものではない。

だが幸いなことに、私たちが悩んだ時には、キリストに助言を求めることができるのだ。もしかしたら、その答えはいつものごとく曖昧なものかもしれない。だが、必要であれば、具体的なことばも与えて下さる。事実、いつもはたとえで話してばかりの彼も、弟子たちに明確な指示を与えたことがあった。「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」(マルコの福音11章2~3節)

弟子たちはイエスのことばに従って行動した。「そこで、出かけて見ると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。すると、そこに立っていた何人かが言った。『ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。』弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。」(同4~6節)

外から見れば、弟子たちのしていることは窃盗である。しかしろばの持ち主は、彼らをとがめなかった。弟子たちが説明したからというのもあるだろうが、もしかしたらキリストが何らかの方法で持ち主の心に働かれたからかもしれない。私たちにどうすべきかを、キリストがはっきりと示されたのであれば、道は必ずや開かれるのだろう。