腹が減っては

腹が減っては戦ができぬ、とはよく言われているが、私にしてみれば、腹が減っては何もできぬ、と言いうのが本音である。それこそ腹が減っていては、物事に集中ができない。もしかしたら私の意志が弱いだけなのかもしれないが、体は正直である。どう頑張っても空腹には抗えない。仕事をしていても夕方近くになると、毎日決まって腹の虫が鳴き出すのである。さぁ、腹の虫が定時を知らせたから帰ろう!なんてことが許されるわけがない。そんなわけだから、私の机の横には、駄菓子屋でお菓子を入れているような蓋付きのガラスの容器を用意して、食料を常備しているのだ。もちろん、チョコレートなどの甘いものと、煎餅などのしょっぱいものと両方である。当然ながら、両者を一緒にすると味や香りが移ってしまうこともあるので、ちゃんとガラス容器は二つ用意してある。いや、私一人で全部消費しているわけではない。さすがに独り占めにするほどケチなことはしない。同じように腹を空かした仲間と共につまむのだ。

では、三度の飯をちゃんと決まった時間に食えば腹は減らないかと言えば、世の中そんなにうまくはできていない。仕事が休みの日などには、6時とか7時とか常識的な時間に夕食を取るのだが、そんな日に限って、夜寝る頃になると、腹が減ったなぁと感じることがある。そんなに夜更かしをしなきゃいいだけの話なのかもしれないが、それができないから厄介なのだ。人には食欲の他に、睡眠欲というのもあるわけだが、事ここに至ると食欲と睡眠欲の勝負になる。心情としては食欲を応援したいのだが、諸般の事情により睡眠欲の肩を持たざるを得ないのが現実である。

ところで、自分で言うのもあれだが、私は温厚な人物だと思う。だがそのような私でも腹が減ったときには、不機嫌になってしまうものだ。何と言うか、腹の虫が鳴き始めたら、腹の虫の居所が悪くなってしまうようなもんだ。まぁ、神様を信じているとは言っても、霞を食べて生きているわけでもない。だから腹が減っても仕方ないじゃないか。

さて、神のひとり子イエス・キリストであるが、彼も人としてこの地上で生きている間は、多くの奇跡を行ったにも関わらず、やはり人間らしい一面もあった。「翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。」(マルコの福音11章12節)

イエスでさえも腹が減ることがあったのだ。私のようにお菓子を常備しているわけでもないだろうから、当然食べられるものを探すのである。「葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。イエスは、その木に向かって言われた。『今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。』弟子たちはこれを聞いていた。」(同13~14節)

ちょうどイエスが空腹を覚えた時に、都合よくいちじくの木があったのだ。だがイエスにとって具合が悪いことに、そのときはいちじくの実る季節ではなかったという。彼はそのことを知らなかったのだろうかと考えてしまうが、もう三十年近くも地中海性気候の地域に住んでいるのだから、知らないということはまずなかっただろう。それでは一体何をこのいちじくの木に求めていたのだろうか。いちじくの実というのは、完全に熟す前でも食べることができたという。これは私の想像でしかないが、もしかしたらイエスは葉が青々とした木の様子を見て、そこに小さな実があることを期待したのかもしれない。しかし彼の期待は裏切られてしまったのだ。おそらくその木は季節が来ても、そもそも実ることがなかったのかもしれない。がっかりしたイエスは、二度と実を結ぶことがないようにと、いちじくの木を呪った。何もそこまでしなくともよいのではないかと思うのだが、腹が減って気が立っていたのかもしれないとも考えてしまう。しかし、私のような単純な人間ならともかく、イエスがそのようなことをするとは考えにくい。何かを伝えようとしていたのかもしれない。

改めて考えてみると、人もこのいちじくの木と同じではないだろうか。虚栄という葉を茂らせるが、果たしてそこに神が求めるような実があるのだろうか。たとえ信仰者であっても例外ではないだろう。信仰という葉を茂らせても、その内側に神が求める実がどれほどあるだろうか。イエスに救われたとはいえ、イエスに喜ばれるような生き方をしているかどうかと、自分自身を振り返ってみるのだが、残念ながら、まだ神を満足させるような実はなさそうである。