山をも動かす

これといって意図しているわけではないが、私が年に一度か二度ほど、ここで話題にしてしまうことがある。宝くじ。どれだけ欲が深いのかと思われてしまいそうであるが……。今年もドリームジャンボの季節になったが、なんと今回の最高額は一等前後賞合わせて五億五千万円だ。従来の宝くじだとせいぜい頑張ったとして三億円、四億円くらいであったが、余裕で越えている。過去に三億円を当てて喜んだ人たちは、もしかしたら歯噛みをして悔しがっているかもしれない。それともそれだけの幸運に恵まれた人は、五億円などは大したものではないと考えるかもしれない。さてはて、いずれにせよ私には円のない……じゃなくて、縁のない話である。

とは言うものの、正直に言えば一等賞金は欲しい。喉からを手を出しすぎて全身が裏返しになってしまいそうなくらいに欲しい。そのためには、まず宝くじを買わねばなるまい。クリスチャンが宝くじを買ったとしても罪にはなるまい。ここでうだうだ喋っていても仕方ないので早速買いに行こうか、と思わないわけではないが、宝くじを買うことはないだろう。経験則から言うと、宝くじとは買っても買わなくても当たらないのである。俗説かもしれないが、宝くじに当選するよりも交通事故で死ぬ確率の方が高いというではないか。まぁ、新聞やらニュースやらを見る限りでは、あながち間違ってもいないようだ。

しかし信仰があれば、神に祈れば、もしかしたら……当たるかもしれない。イエス・キリストもこのように仰っているではないか。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコの福音11章22~24節)

つまりイエスのことばに従うのであれば、信仰さえあれば五億円も夢ではないのである。どれほど非現実的に見えることでも、信じて疑わないのであればそれは現実のものとなり、人間にとっては不可能と思われることでも可能となるのである。実際、山が動いて海に入るなどとは、私たちの理解の範囲を超えているが、海を二つに割ってイスラエルの民をエジプトの軍勢から逃がしたことのある神であることを思い出してみると、納得できるというものだ。

だが、神がどれほど奇跡を起こすことができようとも、私が宝くじを当てることはないだろう。なぜなら私が信じていないのだから。もちろん信じたくないわけでもないし、神以外の存在に期待することに罪の意識を持つほど、私はそこまでまじめな信仰者でもない。もっと単純な理由からである。何のことはない、今の私が宝くじで一等当選する必要がないことを、自分自身が分かっているからだ。大金を手にして身を持ち崩すほど馬鹿だとは思わないが、有意義に使えるほど利口だとも思えない。忠実な下僕のたとえ話ではないが、大事にしまいこんでしまい、世の役に立つような用い方をしないだろう。つまりそんな大金にふさわしい人間ではないのである。どうせ取り上げられてしまうのであれば、最初から持たない方がよいではないかと、そう思うからだ。

改めて考えるのだが、神を信じるということは生易しいものではない。世間では意志の弱い者が神を信じると思われている節もあるようだが、もし意志が弱いのであれば、神を信じるのは難しいのではないだろうか。五感で感じることのできるものを信じるのは簡単であろう。しかしながら、見ることも出来なければ、聞くことも出来ず、当然ながら触れることもできない存在を信じるのは、けして簡単なことではない。時に信仰とは、自らの経験や知識や考えに逆らわなければならないこともあるだろう。たとえは悪いかもしれないが、先に述べた宝くじの話もそうである。まったく疑いもなく当たると信じるのは難しい、というよりも無理なことだ。当たりたいと願いつつも、そんなうまくは行くまいと疑ってしまうのが実際だ。

また、信じることと期待することは似ているようで、実は違うのではないか。期待するのはさほど難しいものではない。何々だったらいいなぁ、というのが期待である。これは誰でもできることだろう。しかし、信じるということは、イエスのことばを借りるのであれば、その期待していることがすでに実現したと疑わないことである。祈り、神に求めるためには、それだけの確たる意志が必要なのである。それだけの強い意志があれば、山をも動かすことができるのだろう。