権威

CNNと言えば世界でも有数のニュースメディアである。つい最近になってから知ったのであるが、インターネット版のCNNでは、いわゆる市民記者が写真や映像や記事を公開できるというサービスを提供しているそうだ。もちろん、CNNはそれらの情報の真偽を確認しないし、それが前提のサービスである。iReportと呼ばれているこのサービスに、先日、こんな記事が投稿されたそうだ。ちなみに、問題の記事は既にCNNが取り下げてしまったので、今となっては確認するすべもないが。さて、その記事の内容であるが、大ざっぱにいうとこんなところだ。1)サイズにしてマンハッタン並の巨大な小惑星を発見。2)その軌道が地球と衝突する可能性は50%。3)衝突の時期は、2041年3月35日。なんと25万人が閲覧したそうだ。注意深く読めば、この記事がデタラメであることに気付きそうなものである、なんせ3月は31日までしかないのだから。もっとも、記事を書いた人のタイプミスだと考えられないこともないだろうが。仮にそうだとしても、それほど重要な日付を間違えるとも考えられない。ちなみに小惑星が発見されたからと言って、すぐに軌道が分かることはないというのが、専門家の意見である。いたずらなのか誤認識なのか、いずれにしても結論を言えば、不安に思うことは何一つない。

ところがやっかいなことは、この記事がCNNの公式サイトに記載されていたことであろう。たとえCNNがその内容を保証していないという立場を明確にしていたとしても、CNNに記載されていたというだけで、真剣に受け取ってしまう人々も少なからずいたことだろう。なぜならCNNという世界的に知られているブランドのメディアが、ひとつの権威として確立されているからだ。

権威主義とまでは言わないだろうが、人は権威ある人や組織の意見や考えをそのまま受け入れてしまいやすいのではないだろうか。そしてほとんどの場合において、それは正しい判断であろう。たとえば私がサンダルを蹴り放って、ひっくり返ったから明日は雨であると言っても、誰も信用しないだろう。しかしお天気のお姉さんが、明日は晴れると言えば、誰もが彼女の言葉を信じるに違いない。それはお姉さんがきれいだからではなくて、お姉さんは気象予報士としての知識と経験があり、なおかつ元となる情報は専門機関から提供されているという、権威づけられた情報であるからだ。

どうやら人が権威というものを重要視するのは、古今東西問わず変わらぬものらしい。「イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、イエスのところにやって来た。そして、イエスに言った。『何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。』そこでイエスは彼らに言われた。『一言尋ねますから、それに答えなさい。そうすれば、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているかを、話しましょう。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。』」(マルコの福音11章27~30節)

さすがに彼らも馬鹿ではない。あれこれ考えた末、どのように答えたとして、イエスを論破できないことに気付いたので、体よくその場を逃れるために、こう答えた。「わかりません。」(同33節)たしかに彼らは知識があっただろうが、真実を見極めるだけの知恵はなかったようだ。いや、知恵というよりも、真実を受け入れるだけの度胸がなかったとも言えるかもしれない。おそらく本当のことを言えば、彼らの権威が危うくなると考えたのだろう。そのようなわけで、イエスも彼らの質問に答えなかった。

改めて考えてみると、イエスの権威は誰が与えたのだろうか。それは人が与えたものだろうか。「このお方はすばらしい!」と人々がイエスについて言ったからだろうか。確かに多くの人々は、イエスのことをそう考えていただろう。だが、それがイエスに権威を与えたとは思えない。むしろ、その反対だろう。イエスに権威があるから、人々がそう言ったと考える方が自然だろう。では、彼の権威は天から、すなわち神から与えられたものなのだろうか。イエスの生い立ち、これまでの働きを考えるとそう考えることもできるだろう。だが、イエスは神のひとり子であるとともに、ご自身も神なのである。そう考えると、彼の権威というのは、誰からも与えられたものではないというのが正解だろう。すなわち彼自身が権威なのである。

すなわちイエスは、人々から畏れられても当然な存在である。だがそのようなお方が、人として人々と共に生活されたことで、私たちはイエスを身近に感じることができるだろう。これほどの権威ある存在が側におられることほど、人にとって安心なことは他にないだろう。