恐ろしい神

世の中には暇な人がいるものだ。もっとも独身の頃は私も暇を持て余すような人間だったかもしれないが、今はむしろ暇が欲しいくらいである。さて、これは日本の話ではないが、聖書の中で神と悪魔の、いずれが多くの人々を殺したかを数えた人がいるそうな。もちろんその人が暇だったのかどうかは、私の想像でしかないが。さてその人によると、神が殺した人数は約247万人であり、一方悪魔が殺したのはわずか10人だったそうだ。ちなみに死者の数が明らかものだけを数えたということなので、大洪水で溺死した人たちの数や、ソドムやゴモラで焼け死んだ人たちの数は含まれていないという。であれば、神はそれ以上に人を殺しているということになる。神を信じていない者にとっては、「そら、見たことか。神はこれだけ残酷なことをするのだ」と神を批判し、神を信仰する者を攻撃する材料にしたいようである。

確かに、神が大勢の命を奪ったということは事実である。ここだけに注目してしまうと、やはり神は残忍だと考えてしまう人々がいたとしてもやむを得まい。モーセの十戒で「汝、殺すなかれ」と命じておきながら、自分は殺しても構わないのかという議論になり、矛盾するような神など存在しないという声も聞こえてきそうなのは残念なことである。

だが改めて考えてみるとしよう。人の命はどこからくるのだろうか。命とは人がこの世界に誕生したときに得るものであろうことは分かる。だが、その源はどこにあるのか。自然に発生するのだろうか。いや、私はそうだとは思わない。命とは神が与えて下さるのだろう。神は人に命を与えることができる唯一の存在なのである。神が人に与えたものを、神が人から取り去ることができるのは、当然のことかもしれない。そもそも人間はいつかは必ず死ぬのである。寿命が尽きたからといって、神を恨むことはないだろう。結局のところ、私たちの命は神の思うところにゆだねられているのだ。たとえ神がその人を殺さなかったとしても、別の形で神は人の命を取るのである。

それでは神に【殺された】という人々のことを考えてみよう。彼らは神に対して罪を犯した者たちではなかったか。神の前に正しく生きた人々が殺されたとは聞いたことがない。大洪水の時でも、神はノアと彼の家族を助けたではないか。ソドムとゴモラにしても、正しい人がいれば滅ぼすことはないと御使いは言ったではないか。だが神は正しいお方であり、不義を受け入れることのできないお方であった。人の視点から見れば残酷なことかもしれないが、神としては罪を世界にはびこらせないためにも、悪を根絶やしにする必要があったのだ。しかしそのようなことが分かっていたとしても、旧約聖書を読む限りでは「神はなんと恐ろしい存在だ」と思ってしまうのである。私自身、畏敬の念ではなく、純粋な恐怖を神に対して抱いていた時期もあった。

さて前回も見た通り、祭司長や律法学者たちはイエスを非難しようとやってきたのだが、彼らの思い通りにはならなかった。イエスは彼らにたとえ話を聞かせた。「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。……続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。」(マルコの福音12章1~5節)

このような状況にあっても、果たしてぶどう園の所有者は堪忍強かった。「その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。」(同6~8節)さすがに彼も黙っていなかった。「ぶどう園の主人は、……農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」(同9節)彼を残酷だとは言えない。それどころか彼の怒りに納得するだろう。

ところで、ぶどう園の主人とは神であり、しもべとは伝道者や預言者たちであり、息子とはイエス・キリストのことである。神は怒るに遅いという。だが、繰り返し反抗するのであれば、その結果は想像できよう。

しかし神は怒り、滅ぼすだけではない。ノアやロトに救いの道を備えたように、神が助けた命や与えた命の数は、奪った命をはるかに上回っていることだろう。