隣の芝が青ければ

あれ、おかしい……給料日までまだ十日近くもあるのだけれど、なぜか財布に小銭しかない。せめて英世が二、三枚くらい残っていてもいいのに。さてさて必要のないものに無駄遣いをした記憶もないのだが。などとあれこれ冷静に考えてみると、今月は出張が多かったから交通費も嵩んだし、飲み会でもちょっと多めに出したし、キャンプにも行ったので、普段よりも出る金が多かっただけだ。もう少し財布に入っていればと願いつつ、もうちょっと稼がなければと思いつつも、四月から六月は稼ぎをなるべく抑えておかないと、次の社会保険料に響いてくるのだから、なるべく稼がないようにしないといけないというジレンマに陥ってしまうのだ。そんなケチなことを考えているときに、財布の中に諭吉をもっている人を見かけると、なんともうらやましくなってしまうのだから、我ながら情けない。

さて隣の芝は青いとは言うけれど、他人のものを羨んでしまうのは、人間の性というものなのだろうか。自分より稼いでいる人がいることを知れば、その人がうらやましくなる。能力や才能を生かせる仕事をしている人を見れば、自分もそのように働けたらと思ってしまう、まるで自分に何か特技でもあるかのように。人というのは、自分の持っていないものを欲するものなのかもしれない。そのような欲がなければ、どれだけ気楽に過ごせるだろうかと思うのだが、残念ながら私には到達することのできない境地だ。考えようによるが人を羨むということは、悪い方に倒れると、その人に対する根拠のない憎しみや敵意となるだろうが、もし良い方向に倒れるのならば、それは人を奮い立たせ、さらなる高見を目指すための原動力ともなるだろう。もっともいずれにも倒れなければ、無気力というマイナスにもプラスにもならないのだが、どうなるかは、その人の気の持ちようということだろう。

ところでイエスの時代に生きた宗教家や律法学者たちが、彼を目の敵に思っていたことは確かである。彼らがイエスを憎んでいたのは、やはりねたみから生じたのかもしれない。おそらく彼が人々の人気や期待を一身に集めていたことで、イエスが現れるまで人々から尊敬されていた彼らの教えてきたことや伝えてきたことに、人々が耳を貸さなくなり、また彼ら自身からも大勢の心が離れていったことにあるのだろう。イエスの人気に対する嫉みが、彼に対する憤りや憎しみになってしまったのだろう。

それにしても、彼らはどうしてイエスに対して常に批判的な見方しかできなかったのだろうか。もう少し頭を冷やしてから考えることはできなかったものだろうか。少しはイエスの教えることに耳を傾けてみるとか、彼と共に数日過ごしてみるとか、そうしようと思えば彼に近づき、彼を知る機会はあっただろう。むしろそうした方が、彼らにとってもよかったのではないか。それこそ、良い方向に倒すことさえできれば、彼らはイエスの働きを大いに手助けすることにもなったかもしれない。

後の世に生きる信仰者にしてみれば、彼らはあたかもイエスを困らせた「悪役」のように見られているが、彼らはそんな悪い人間ではなかったかもしれない。もちろんどのような組織であれ、根っからの悪人がいるというのはいつの時代でも変わらないが、それは少数派であろう。おそらく純粋に信仰や伝統を重んじた人々だったかもしれない。だが残念なことに、彼らも人間である。人に意見や考えに影響されることもあるだろうし、自らの抱いている否定的な感情に流されることもあるだろう。彼らはあの手この手でイエスを陥れようと画策するのだった。

しかし、ひとりの律法学者がイエスにこう尋ねたそうだ。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」(マルコの福音12章28節)

「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(同29~31節)

「先生。そのとおりです。『……主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」(同32~33節)

イエスは彼に言った。「あなたは神の国から遠くない。」(同34節)

この律法家がイエスに教えを請い、それを受け入れたように、他人の成功を羨んだり嫉んだりせずに、そこから見識を得ようとするのであれば、彼が神の国に近づいたように、人は何かを得ることになるのだろう。嫉妬は敵意につながるが、謙虚さは祝福に結びつくのかもしれない。