終わりあり

物事にはすべて終わりがある。私もそうであるが、人というのは良くも悪くも終わりが気になってしまうものであろう。たとえば我が家では、こんな具合だ。娘たちは連休の最後の日になるたびに「あーあ、休みも終わっちゃうのかぁ、残念」と口にしているし、それを聞きながら私は「ふぅー、ようやく休み終わりか」と思うのである。終わりを期待して待つ人もあれば、失望の思いで待つ人もいるということだ。ついでながら、巷の人々は世界の終わりが気になるらしい。前世紀には、ノストラダムスの大予言で盛り上がったりしたものだが、結局世界の終わりはやってこなかったし、今世紀に入ってからは、マヤ暦のカレンダーが終わる2012年に世界が終わると映画まで出来たが、やはり何も起こらなかった。なぜだか人は物事の終わりが気になってしかたがないものらしい。

ところで、世界には果たして本当に終わるのかどうかと思われる物事も多く存在する。形ある物いつかは壊れると言われているが、形ある物でも永遠に残りそうなものが数多くあるというのも、また事実である。例えば、エジプトのピラミッド。有名な三大ピラミッドの他に、現存するものだけでも百を超えるそうだ。それこそ、モーセが生まれる前の時代のものもあるかもしれない。日本でも、紀元7世紀の建立の法隆寺五重塔は世界最古として知られている。ピラミッドにしても、法隆寺にしても、ユネスコの世界遺産に登録されているほどで、世界的に認知されている存在だ。古いものでも、ちゃんと残っているではないか。

美しいもの、華々しいもの、力強いもの、壮大なもの、そのようなものは傍目には永遠に続きそうな存在であるし、現に遠い昔から今に至るまで形を残しているものも多い。イエスの弟子も、エルサレムの神殿を見て、このように言っている。「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」(マルコの福音13章1節)

だが、それに対するイエスの返事は冷めたものだった。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」(2節)

弟子たちの立場から考えてみれば、イエスの返答はおそらく衝撃的なものであったろう。弟子たちでなくとも、イスラエルの人々にとって神殿とは、彼らの生活にとってなくてはならない重要な存在であったろう。今見ているように、イエスも神殿へやってきたし、一緒に弟子たちもやってきた。そこには諸地方からイスラエルの民が集まってきたし、イエスに対して批判的であった律法学者や長老たちにしても、やはり神殿に集っていた。なぜならそこは、イスラエルの人々がいけにえを捧げることのできる場所だったからだ。彼らにとっては神にもっとも近づける場所であり、世界の中心と言っても言い過ぎにはならないだろう。これは、私の想像でしかないが、当時の人々にとっては、神殿は永遠にそこにあるべきものであり、それが崩れてしまうことは、まさしく「世界の終わり」以外に考えられなかったのかもしれない。

さすがにイエスのことばを聞いて不安になったのだろう。ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの四人は、こっそりとイエスに聞いたそうだ。「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」(同4節)

イエスは彼らにこう答えた。「わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、……多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。……民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。」(同5~8節)

これらはいつのことだろうか。歴史を振り返ると、神殿は紀元70年頃にローマ軍によってすでに破壊されている。だが、世界はまだ終わっていない。昨今の世界情勢を考えてみると、今がその時期なのだろうか……と思ってしまうが、戦乱にしても天災にしても常に世界のどこかで起こっていることであり、今に始まったことではない。そう考えると、世界の終わりは、明日のことかもしれないし、もしかしたら何千年も先のことかもしれない。つまり、いつか分からないというのが正解である。(同32節)

イエスは言っている。「目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。」(同35~36節)

神を迎える心の準備に「まぁ、明日でもいいか」という余裕は、果たしてあるだろうか。