もったいない

昔、私がまだ子供の頃だが「もったいないお化け」というのがいた。いや、もちろんそんなお化けとか妖怪とかがいるわけではない。何かのテレビ番組の合間に放送されるコマーシャルに登場しただけだ。あれは全国放送だったのか、それとも地方局だったのか、覚えていない。まぁ、そんなことはどうでもいいのだが。さて宣伝の内容は至って単純で、ご飯を残した子供のところに、夜になったら、残された食べ物が化けて出て、「もったいねー、もったいねー」と言うだけのものだったと記憶している。もし間違っていたら、申し訳ない。要するに、食べ物を粗末にするのはやめましょうということだ。もしかしたら、私と同世代の方々は知っているかもしれない。

これは私の考えだが、もったいないというのは、どちらかと言えば否定的な意味が含まれているのではないだろうか。食べ物を残すのはもったいない(先ほどのもったいないお化けにも象徴されているように)、ものを捨てるのはもったいない(まだまだ使えるじゃないか……で、実際に使われなかったことの方が多かったりもする)、時間がもったいない(何かをしなかったときの言い訳によく使われるセリフだと思うのは、果たして気のせいだろうか)などと言った具合である。人がもったいないと口にするときは、大概状況が良くない場合であり、「もったいなくない」と思える状況に持って行くことができれば、概ね物事は改善されている場合であろう。食べ物を残さず食べるとか、使えるものは再利用するとか、限られた時間を有効に使うとか、そう言ったところか。

人はいつの時代でも、どこの世界でも同じということだろうか。高価なものを捨てるように使う人を見て、もったいないことをするものだと非難したくなるのは、人の常かもしれない。噂でしか聞いたことのないことだが、何でもアラブの産油国では、路地裏に高級車が放置されているらしい。それこそ、世界で8千台しか生産されなかったデロリアン(映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」でタイムマシンのモデルになったあの車)も砂をかぶったままで放置されてるとか。まぁ、他人のものをとやかく言っても仕方がないのは分かっているが、一言ふたこと、文句も言ってみたくなるものだ。

ところで、それに通じるようなことが聖書にも記録されている。「ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。『何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。』そうして、その女をきびしく責めた。」(マルコの福音14章3~5節)

ちなみに三百デナリがどれくらいの価値であるかというと、当時の平均的な労働者の年収に相当する額だという。つまり、この女性は売れば年収一年分に等しい金額を得ることができるほどの香水を持っていたのである。それを彼女は容器ごと壊して、イエスの頭に注いでしまったのである。想像するに容易だろう。イエスに注いだと言っても、最終的にそれは地面に吸い込まれてしまった。覆水盆に返らず、とは言うが、まったくその通りになってしまった。周りに居た人々から見れば、一年分の稼ぎがみるみる消えてしまうようなものだろう。彼女のものを彼女がどうしようと問題はないだろうに、人々は口々に彼女を責めるのだった。とは言え、人々の意見も間違ってはいないだろう。もし私がその場にいたとしたら、こう考えたかもしれない。それだけの予算があれば、多くの人々に施すことも可能であったし、そのように使った方がより人道的だろう、と。

だがイエスは、ちょっと違うことを考えておられたようだ。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。」(同6~8節)

イエスは女性の行いを認めた。それも、立派な行いであるとして認めたのである。イエスは彼女のしたことを、ご自身に対する「埋葬の用意」とみなしたのだ。つまり彼女は自分自身で気付いていたかどうかは別にして、今しかできないことを、もうすぐ十字架で死ぬことになるイエスのために行ったのである。人道的な行いは、イエスが去った後でも出来るが、イエスのために何かをする時間は残りわずかであった。彼女は善行よりも、イエスとの関係を選んだのである。何がもったいないって、一番もったいないのは、神と過ごす時間を忘れてしまうことかもしれない。